人物交遊録         

   高市早苗 衆議院議員

1. 高市早苗衆議院議員は、2001(平成13年)年10月の今、御年40歳。奈良県第1選挙区から選出された衆議院議員(現在3期目)で、自民党(森派)に所属し、現在、衆議院文部科学委員長の要職にあります。彼女は、2001(平成13)年9月23日付産経新聞の「アピール覧」では、衆議院文部科学委員長、高市早苗40、という肩書で、小泉改革の経済政策についての、自分の考え方を投稿していました。
 タイトルは、『小泉改革は「地価対策」がカギ』というものでした。
 早苗代議士は、小泉内閣登場前は、(評判が悪かった)森内閣において、森派の「若手議員」として、「勝手補佐官」のメンバーとなって、さまざまの活動を展開していました。また1998(平成10)年8月から1999(平成11)年10月までは、小渕恵三内閣(1998年7月31日〜2000年4月4日)の下で、通商産業政務次官という要職をこなしていた、実力派の代議士です。また、日曜日の「サンデーモーニング」や各種の政治討論会にもよく顔を出し、大阪弁で、シャキシャキと本音を語る、喋りのうまい代議士でもあります。

2. 彼女と私との出会いは、今を遡ること11年前。すなわち1990(平成2)年5月21日の郡山ロータリークラブでの例会でした。私が法隆寺に住んでいた頃で、柄にもなく、ロータリークラブの活動を始めた直後でした。当時の彼女は29歳で、肩書は「日本経済短期大学専任教員」、「(財)松下政経塾 塾員」で、「立法政策研究センター専門研究員」というもの。26歳でアメリカへ渡り、2年間働き、28歳で日本へ帰って、次のステップへの準備をしている最中でした。
 「奈良に、神戸大学の経営学部を卒業して、松下政経塾を卒業し、政治家を目指している若い女性がいる」、
 「なかなかのベッピンさんで、『朝から生テレビ』などにもよく出演していて、話は面白い」、
 また、「アメリカ初の女性大統領候補者パトリシア・シュローダーの応援をしたいと思い立ったら、矢も楯もたまらず、1人でアメリカへ飛び立ち、アメリカ連邦議会のコングレッショナル・フェロー(立法調査官)として、シュローダーの事務所で約2年間働いたという経歴の持ち主」、
ということでした。
 また、彼女の著書としては、『アズ・ア・タックスペイアー』(納税者として)や『アメリカの代議士たち』という本がある、とのことでしたので、すぐに購入して読みました。



ロータリークラブでの「講話」は、約15分程度。彼女の活動のほんのさわりを聞いただけでしたが、松下政経塾卒という肩書と、彼女の行動力、そして『アズ・ア・タックスペイアー』の中で展開している、彼女の日本人離れした合理的な考え方に魅力を感じた私は、さっそく彼女と名刺を交換し、以後、さまざまな親交がはじまりました。

3. 具体的な接触は、私が彼女を紹介して、大阪弁護士会の研修で講演してもらったものでした。1991(平成3)年1月23日に開催された弁護士会の研修会のテーマは、彼女のアメリカでの2年間の実体験をもとにした「日米構造協議」問題に鋭く切り込むものでした。弁護士の実務的なテーマで実践的な研修をやるのとは全く異なり、国際的な視点に基づいて、当時の「経済大国」日本と米ソ冷戦終了後、経済不況にあえいでいたアメリカとの、「開戦前夜」、とか「第二の黒船」とかと言われた「日米構造協議」問題を縦横無尽に語ったもので、大いに勉強になりました。
 他方、私から彼女へは、『岐路に立つ都市再開発』、『都市づくり弁護士奮闘記』の著書を送り、また当時、私が代表として主催していた、「都市問題研究会」の資料などを送り、私の都市問題での活動を紹介しました。
 以降、毎年の年賀状と暑中見舞いのやりとりなど、お互いの状況報告が続きました。

4. 彼女は、1992(平成4)年7月26日の参議院議員選挙では、自民党の公認問題のもつれもあり、自民党公認のないまま奈良全県区で立候補したものの、落選(次点)してしまいました。
 しかし、この時代の政局は、大きく流動していました。1993(平成5)年の夏、政治改革の機運が高まる中、宮沢喜一内閣の不信任という大事件が発生したのです。その結果、小沢一郎、羽田孜ら多数の議員が自民党を離党し、羽田孜を党首とする「新生党」、武村正義を党首とする「新党さきがけ」が結党されました。さらに、1992(平成4)年5月に細川護煕を党首として結党された「日本新党」は、「私がソロを弾き始めた。次第にそれが大きなオーケストラになる」と細川党首が語ったとおり、「責任ある変革」を目指して、日本に新党ブームを生み出していました。
 そんな中、1993(平成5)年6月18日の宮沢喜一内閣の解散(いわゆる、嘘つき解散)に伴って、1993(平成5)年7月18日に衆議院議員選挙が実施され、自民党は大敗。戦後、38年間にわたった自民党の一党支配が終わりました。
 そして、この選挙で、奈良全県区から高市早苗衆議院議員が誕生しました。32歳の夏、女性代議士としては憲政史上最年少での当選でした。

5. 日本の政治は、1993(平成5)年7月18日の衆議院議員選挙後、大きく変わりました。8月には、細川護煕を首相とする社会党、新生党、公明党、さきがけ、日本新党など、8党・会派による連立政権が登場し、「生活者の利益優先」の新しい政治体制への移行を宣言しました。国民には、新しい時代の到来への期待がふくらみました。 
 しかし、残念ながら、「規制緩和」、「地方分権」など、細川連立内閣が掲げた施策は容易に進まなかったばかりか、突然の「国民福祉税」構想の発表に対する反発や、細川総理の政治資金をめぐる個人的なスキャンダルの判明などのため、1994(平成6)年4月25日、突如、細川総理は政権を投げ出してしまいます。
 その後、1994(平成6)年4月28日には、羽田孜新生党党首を総理とした内閣が成立しますが、社会党などは、既に連立を離脱。政権基盤の脆弱な羽田内閣は、1994(平成6)年6月25日に内閣総辞職をします。 
 そして、1994(平成6)年6月30日に登場したのは、何と、自民党と社会党が手を結び、村山富市社会党委員長を首相とする「自社さきがけ」政権でした。
 このように、1994年(平成6)年は、2回も内閣が入れ替わるという「政治の年」でしたが、このような激動の時代に早苗代議士は新米議員として走り回り、1994(平成6)年4月20日には、柿澤弘治を党首とした「自由党」の結党記者会見の中に、早苗代議士の姿を見ることになります。

6. 政党の「離合集散」、「政界再編」は更に続きます。1994年12月には、新生党、日本新党の他、公明党までが「大合体」して、海部俊樹を党首とする新進党が結党されます。早苗代議士は、悩みながらも、自由党を解党し、新進党に合流します。
 1995(平成7)年1月17日の阪神・淡路大震災の発生。これに対する村山首相の対応、危機管理能力の欠如ぶりには早苗代議士は怒りました。そこで、早苗代議士は、有志で「村山首相の辞職を求める声明」を作り、村山倒閣運動を展開します。また、起党派の若手議員は1995(平成7)年2月、船田元議員を会長とする「日本の総理の資質を考える会」を結成し、早苗代議士は、その事務局長をつとめます。

7. 阪神・淡路大震災からの復興まちづくりについて、私たちは1995(平成7)年2月1日、都市問題研究会の名でアピールを発表しました。また私は1995(平成7)年2月10日の朝日新聞「論壇」に投稿し、「被災地復興は多用なメニューで」と訴えました。そして、この未曽有の被害に対していかに対応していくのか、また借地借家問題をめぐって罹災借地借家臨時処理法(罹災都市法)をはじめとする日本の都市法体系の不備にどう対処するのかについて、私は弁護士として、早苗代議士は国会議員として、それぞれ頑張っていこうという手紙をやりとりし、お互いの姿勢を確認し合いました。

8. 1995(平成7)年9月8日には、『高市早苗のぶっとび永田町日記』の出版記念パーティーが大阪で開かれたため、私も出席し、言葉を交わしました。国会議員としての悩みを含む「本音」を率直に語ったこの本を、私は高く評価しています。
 
パーティー後すぐに私は、
 「現在私は、中2(男)と小5(女)の2人の子供がいますが、2人にこの本をみせて、読んでみろ、きっと参考になるから、自分の生き方を考えていく上でためになるから、と言って渡しました」
 「永田町の慣習に染まることなく、アメリカ仕込みの合理性と松下政経塾での基盤勉強を土台として、1つ1つの政治活動を自分の視点で考え、実践していってもらうことを期待しています」
 「1年に1回、とまでいかなくとも、2年に1回は、第2、第3の永田町日記を発表してもらいたいと思います」
などと書いた長文の手紙を送りました。

9. 1996(平成8)年は、新進党の党首を公開選挙で選ぶ運動で、早苗代議士は、羽田孜陣営の事務局次長をつとめるなど、その実力は次第にアップしていきました。1996(平成8)年9月には、早苗代議士の要請に応じて、次のような推薦の言葉を書かせて頂きました。
                   推薦の言葉
 
今の日本は、安保(沖縄基地)・財政危機(消費税)をはじめ行政改革・規制緩和・地方分権など課題山積みです。閉塞状態を打開し元気な日本にするため、政治家は自分の言葉で率直に(場合によれば反対も覚悟し)本音を語り、また若者に対しては、政治参加の必要性と意義を訴えるべきです。早苗議員はそれができる不可欠の人材です。ご支援下さい。

 そして1996年9月27日の衆議院解散(いわゆる小選挙区解散、第1次橋本龍太郎内閣)に伴い実施された1996(平成8)年10月20日の初の小選挙区制の下での衆議院総選挙で、彼女は、奈良一区で、2期目の当選をトップ果たしました。
 しかし、代議士活動2期目に入った直後の1996年11月、早苗代議士は、「政策上の食い違いが修正不可能になった」、として、突如、新進党を離党し、無所属となります。
 そして1996年12月には、多くの批判を浴びながら、自民党に入党します。
 この「新進党離党」、「自民党入党」というストーリーは、政党の部外者の私には、もちろんわからず、批判的な目を強くもっていましたが、「悩んだ末の決断」という意味では、やむを得なかったものと考えています。
 1998(平成10)年7月31日に発足した、小渕内閣の下で、早苗代議士は、通商産業政務次官に就任し、数々の実績を残していきます。

10. 2000(平成12)年3月31日には、松下政経塾出身国会議員の会のメンバーが執筆した『21世紀・日本の繁栄譜』の出版記念パーティーが大阪で開かれました。
 この本の中で、彼女は、何と、2010年10月、内閣総理大臣に選出された高市早苗を「近未来の自画像」として描きました。「高市内閣」を組閣した高市総理は、政権の方向性としての5本の柱を次のように示します。
 @ 「国家の主権と名誉」「国民の生命と財産」を確実に守り抜く政治を実現する
 A 「国益」の追及を明確な目標として打ち出す
 B 行き過ぎた結果平等を廃止「機会平等」が保障される社会を創る
 C 国民の「自由と権利」を守ると同時に、「責任と美無」の大切さを訴え、社会秩
  序を再構築する
 D 「私たちの時代の私たちの憲法」を作り上げる
 国会議員をはじめ、国民みんなをアッと言わせる壮大な未来像ですが、私は、彼女は日本初の女性の総理大臣候補の有力な1人と真剣に考えています。
 
11.2000年4月はじめ、小渕総理が昏睡状態となったため、いわゆる「5人組」(青木幹雄官房長官、森喜朗幹事長、亀井静香政調会長、野中広務幹事長代理、村上正邦参院議員会長)の協議で、森喜朗を次期総裁に推すことを決定します。そして、自民党の両院議員総会では、無投票で森総裁が選出され、総理となります。
 しかしこの一連の動きに対しては、「密室」批判が続出したため、森内閣は、2000年6月2日衆議院を解散し(いわゆる神の国解散)、総選挙を行います。
 2000年6月25日の総選挙では、自民党内の公認争いの結果、奈良1区ではなく、比例区で自民党として立候補した高市早苗は、3期目の当選を果たします。そして第2次森内閣が発足のしますが、そのあまりの人気のなさに、早苗代議士は、「勝手補佐官」となって、人気挽回につとめます。しかし、その甲斐なく、森総理は2001年4月に退陣。橋本龍太郎、麻生太郎、亀井静香、との自民党総裁選挙を勝ち抜いた小泉純一郎が2000年4月24日自民党総裁に選出され、4月26日、小泉新内閣を発足させます。
 このような政局の動きの中で、早苗代議士は、2001年1月31日以降、衆議院の文部科学委員長の要職をつとめています。

12.この高市早苗代議士と私との交友録は、過去のファイルや資料を整理しながら、ここまで書き進めてきました。あらためて、このように約10年間にわたる交友を整理してみると、まさに日本のここ10年間の政治状況の変遷が浮き彫りになります。 とりわけ、
 @1993(平成5)年8月の細川連立内閣の成立、と
 A村山自社さきがけ政権下での1995(平成7)年1月17日の阪神・淡路大震災
  の発生、
は大きな出来事でした。
 また高市早苗が出版した『永田町日記』は、新米の国会議員の目ではありますが、率直、正直かつ鋭く、「永田町政治」の実態と激動する政治状況を分析して国民に示した立派な本です。
 そして、『21世紀・日本の繁栄譜』における彼女の執筆部分は、本当に近未来に高市早苗内閣が実現するかもしれない、と考えさせるに充分な「骨太の方針」を示しています。
 2001(平成13)年4月に発足した小泉純一郎内閣は、「聖域なき構造改革」を掲げ、国民の高い支持率を背景として、改革を進めようとしていますが、その前途は不明瞭です。国民が「今の痛み」を甘受すれば、本当に「日本の明るい未来」は展望できるのか、そう考えてみると、私には、悲観的な見方の方が強くなってしまいます。
 2001(平成13)年9月11日、アメリカで同時多発テロが発生しました。
 これをめぐって、アメリカはもちろん、世界中が大きく変わろうとしています。日本も、何とか今までのスピードではなく、国際水準のスピードに合わせるべく、小泉総理を先頭に懸命の努力をしていますが、その内容の「是非」や方向性の「是非」は本当に難しい問題です。国民1人1人が今それを真剣に考えなければならないし、国会議員は明確に自分のビジョンを語り、国民に示すべきです。

13.人間には誰しも、「旬」の時代があります。政治家、国会議員ともなれば、なおさらです。最近総理に1番近い距離にあった加藤紘一は、2000年11月のいわゆる「加藤の乱」以来、表舞台を去ってしまいました。
 逆に、小泉純一郎は、今まさに「旬」の政治家です。そして石原慎太郎は1999(平成11)年4月に東京都知事に就任した以降、再び、「旬」の政治家になりました。そして、小泉総理が登場した中、ますますその存在感を強めています。
 菅直人は?小沢一郎は?鳩山由紀夫は?と考えていくと面白いものがあります。
 今、女性政治家で一番「旬」の人は?、と考えると、田中真紀子は、ボロがでてしまったため、社民党の辻元清美だと思います。あの市民運動出身らしい元気の良さとインテリジェンスはなかなかのものです。かつて日本新党が華やかなりし時は、小池百合子だったでしょう。そして今の自民党はと言うと、野田聖子か高市早苗といったところでしょうか?
 早苗代議士は、今40歳。国会議員としての経験を約8年積んだ今、これからの一層の飛躍が期待される人材であることは間違いありません。しかし「旬」の観点から見ると、新しい女性国会議員と対比して、多少の心配がない訳ではありません。
 2010年、高市早苗総理総裁が実現するためには、もっともっと華のある活躍を続け、旬の時代を続けることが必要です。頑張って下さい。
 このホームページを通じて、私から早苗代議士にエールを送ります。
                                       以  上
                2001(平成13)年10月 記