人物交友録


第1.桂小春、あらため、3代目桂小春団治(本名、三島広幸)さんのこと。

1.小春さんとの出会い

 「桂小春」と名乗って活動していた小春さんと知り合ったのは、1995(平成7)年1月17日の阪神大震災の後の1995(平成7)年8月に、私が芦屋中央地区で震災復興まちづくり協議会の顧問弁護士となり、震災復興土地区画整理事業のために,再三、芦屋に行くようになった時期でした。
 彼は、芦屋中央地区にある西法寺(さいほうじ)というお寺の副住職である、上原照子さんが、震災直後に、被災者に元気をとり戻してもらおうという趣旨で、お寺で開催した落語会に招かれて出演して、上原さんと親しくなりました。
 芦屋中央地区での震災復興まちづくりのための活動は、そりゃ大変なものでした。しかし、上原さんは震災復興土地区画整理事業をすすめるために、地元住民で結成した芦屋中央地区まちづくり協議会の役員として、献身的な活動を続けました。
 そのエネルギッシュな上原照子さんがお寺の副住職として実施する様々な活動に、小春さんも私も、いろいろな形で参加する中で、男同士の結びつきも強くなっていきました。

 毎年1月17日には、西法寺で、阪神大震災の追悼会を開催していましたが、1997(平成9)年1月17日には、私と作家の小田実(おだまこと)氏(かつての「ベトナムに平和を!市民連合」の代表として有名)がゲストとして対談し、小春さんが司会として、うまく議論を進行させるという役割で、対談会をやりました。
 この時は、個人補償をめぐって(私は消極派、小田実さんは推進の旗振り役の)大激論となりました。小春さんは、さぞ、大変だっただろうと思います(「岐路に立つ芦屋中央地区」「芦屋中央地区の皆様へのアピール1、2」 参照)。


2.コハリスト倶楽部の発足

 小春さんの後援会としてのコハリスト倶楽部を発足させることになり、1997(平成9)年2月26日に、そのパーティが開かれました。
 この時、私は発起人にはなりませんでしたが、このパーティが契機になって発起人とも親しくなり、交友が広がりました。上原照子さんの親友の、女優である「三林京子」(みつばやしきょうこ)さんと知り合ったのもこの頃です。
 コハリスト倶楽部は、小春さんの後援会ですから、いろいろと企画を練る一方、落語会などのイベントをやるために、チケットを販売しなければなりません。パーティの華やかさを見て、さぞ立派な組織で固まっているのだろうと思っていたら、実際は大違い。ポスタ−づくりやチケットの販売、当日の花の準備など、何から何まで自分たちの手づくりでやっていたのです。

 コハリスト倶楽部の打ち合わせに出席すると、「坂和さん、チケット何枚いける?」と言うので、「まあ、20枚位なら」というと、以降毎回、それが当然のノルマとなります。もっとも、コハリスト倶楽部の打ち合わせといっても、このチケット販売が主な議題で、終われば食事会、飲み会というパターンですが・・・。


3.第1回独演会
 
 1997(平成7)年4月12日には、小春さんの第1回桂小春独演会が開かれました。
 この時は、落語も面白かったですが、ゲストとして、歌手の「桑名正博」(アン・ルイスの元夫)さんを呼んでのトークが非常に楽しいものでした。桑名正博さんの大ヒット曲である『月のあかり』をつくった時の苦労話や、ナマの歌を聴いて感激しました。


4. 芸術祭 新人賞受賞

 小春さんはこの時期、伸び盛りでした。1997(平成9)年度の文化庁芸術祭新人賞を受賞したため、1998(平成10)年3月2日に、受賞祝賀会が開かれることになり、私は発起人の一人として働くことになりました。発起人に名前を連ねたとなると、私も責任重大です。私の友人や親しい依頼者に、一斉に手紙やFAXを送って、参加の可否を求め、更に電話で勧誘するという、私の「事務処理能力」が大いに発揮されました。
 私の事務所のスタッフを総動員してのこの作業は、今までのコハリストクラブにはなかったもので、一躍、私の「観客動員能力」が認知されるところとなりました。


                                             
             

5. 産経新聞での交遊録の掲載        産経新聞「人物交友録」

 新人賞の受賞祝賀会が終わった直後、産経新聞夕刊が連載していた「人物交遊録」に、小春さんと私を掲載してもらうことになり、お互いに相手の人物を紹介することになりました。
 私は、割と真面目に彼のことを書きましたが、小春さんの私への人物評は、極めてユニークで、さすがに面白い視点をもっているなと関心しました。
 この産経新聞の記事は、いろんな場面での私の自己紹介に利用させてもらっています。


6. 三代目桂小春団治の襲名

 さらにビックニュースとビックイベントが続きました。何と小春さんが、三代目桂小春団治を襲名することになったのです。そのため、1999(平成11)年4月23日、襲名披露落語会の開催が決定し、また発起人として、案内状の送付、チケットの販売等の作業が続きました。
 襲名披露落語会には、桂春団治、桂米朝、桂文枝、露の五郎、桂春之輔、などの大御所も出席していたため、さすがの小春団治さんも緊張していたようですが、汗を拭き拭きの大熱演でした。


7. 生国魂(いくたま)神社での彦八まつり


 1998(平成10)年の9月5日、6日、大阪は谷町9丁目にある、生國魂神社での彦八まつりに私は初めて行きました。これは「1990(平成2)年に大阪落語の始祖といわれる「米沢彦八」の碑をゆかりの地の生國魂神社に建立し、その翌年から神社境内に年に一度上方落語家が一堂に会し、現在の上方落語の隆盛に感謝し、大衆芸能として永遠に庶民に愛され続けられるように」という趣旨で上方落語協会が、毎年9月の第1土曜日と第1日曜日に開催している行事だということです。私はそれまでは、そういう由縁は全く知りませんでした。私は1996年(平成8)年から、四天王寺のマンションに住所を移していましたので、生國魂神社は歩いて10分程度のところ。従ってこの彦八まつりへの参加も、私の年中行事となりました。


8. エジンバラ・フェステティバルへの参加

 とにかく、小春さん(じゃなかった小春団治さん)は、次から次へと何かをやる人です。小春さんは、何と、毎年8月中旬から9月下旬まで、イギリスのエジンバラで開かれているエジンバラ祭りの、2000(平成12)年分にエントリーしたのです。「何がどうなるのかわからないが、とにかく行ってみる」ということでした。このため、直前の7月29日には小春団治エジンバラ公演応援落語会、直後の10月5日には小春団治英国公演報告会、と慌ただしい日程でしたが、何とかこれを消化しました。
 エジンバラで活動している最中も、彼はホームページに毎日の報告を続けていたようで、その行動の素早さには感心しきりでした。


9.愛光学園同窓会への出演 

 私は1992(平成4)年から愛光学園関西支部の幹事をしていますが、毎年、その総会が開かれます。ある時の打ち合わせで、総会も形式的な議題の処理とその後の懇親パーティだけでは芸がないので、30分程度の何かイベントをやろうということになり、「それじゃ小春団治さんを呼んで、ミニ落語会をやろうか」ということになました。その結果、2000(平成12)年7月と、2001(平成13)年5月の2回、ミニ落語会が開催されました。
 1回目の冒頭、小春団治さんの「つかみ」は、「えらいむさくるしい集まりでんな!女が1人もおらへん!」というものでした。そりゃ、愛光中、高校は男子校で、その同窓会ですから、男しかいないのは当たり前。
 しかし、この小春団治さんの「つっこみ」を受けて反省したのか、同窓会関西支部は、翌年2001(平成13)年には初の試みとして、「奥様同伴」を勧めることになりました。
 従って2回目のミニ落語界の時には、奥様連れもチラホラ。かくいう私も、妻を同伴しました。


10.忘年会や飲み会でのカラオケ合戦

 私がカラオケ好きなことは、『趣味のページ−カラオケ−』で書いたとおりです。
  小春団治さんは学生時代、いろいろな楽器をやっていたこともあり、音楽センスは抜群です。当然、若い人の歌もよく覚え、歌っています。ウルフルズ、B'z、Mr.children、などが得意分野です。Misiaの「Everything」なども歌いますが、私が思うには女性の歌はあまり声に合わないみたい(私の方がうまい?)です。
 飲み屋に行っても、私も小春団治さんも「女の子を口説くよりも、カラオケ」というタイプですから、自然とカラオケ合戦になります。次から次へと果てしなく歌が出てきます。「先生、なんで、そんな歌知ってまんねん!」「いつ歌の練習してまんねん!」と言いながらも、自分も対抗して、若い子の歌を歌う小春団治さんです。


 第2、第3の人物交友録は、今後、充実させていく予定です。