旅行記

第2 中国(大連(だいれん)・旅順(りょじゅん)・瀋陽(しんよう))旅行記
     2000年(平成12)年8月10日〜14日     写真@〜I
 
〔旅行の動機〕
 大連は、かつて、日本とロシアが覇権を競い合った地であり、私の愛読書である、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の舞台の1つです。また大連市内から西に約60kmの所にある「旅順」は、旅順港閉塞作戦で有名な軍港ですし、また、二〇三高地をめぐる日本軍(乃木希典大将)とロシア軍(ステッセル将軍)との死斗は有名です。
  @ 「旅順(りょじゅん)開城(かいじょう) 約成(やくな)りて 
     敵の将軍 ステッセル
     乃木大将と会見の
     所はいずこ 水師営(すいしえい)
  A 庭に1本(ひともと) 棗(なつめ)の木
     弾丸あとも いちじるく
     くずれ残れる 民屋(みんおく)に
     今ぞ相(あい)見る 二将軍
  B 乃木大将は おごそかに
     御(み)めぐみ深き 大君(おおぎみ)の
     大(おお)みことのり 伝(つと)うれば
     彼(かれ)かしこみて 謝しまつる
  C 昨日(きのう)の敵は 今日の友・・・」
と延々と続く『水師営の会見』(曲名)は、私が小学生の時、何回も何回も父が歌うのを聴いて覚えた歌です。鉄道唱歌などとともに、今でも歌詞がスラスラと出てきます。
 また大連から北東へ約350km離れた瀋陽は、昔、日本名で「奉天」と呼ばれたところ。かの昔、日露戦争において「奉天大会戦」が行われたところです。
 大連も旅順も奉天も、松山市出身で有名な「秋山兄弟」の兄、秋山好古(よしふる)が率いた日本騎兵の活躍や、弟、秋山実之(さねゆき)の日本海海戦における天才ぶりなど、「坂の上の雲」で ワクワクしながら何回も読んだ場面が頭に浮かんでくる、親しみをもった土地です。
 こういう背景があった時、ヒョンなきっかけで、中国の大連からの留学生から、「夏休みに中国に帰るので、その機会に、大連に来ませんか」「家族みんなで案内します」と誘われ、その気になったのです。
 短い期間でしたが、旅行中は本当にその家族や友人みんなに親切にしていただきました。中国式の夕食の歓迎、車での各地への案内、友人によるガイド、などなど、それは熱狂的な歓迎でした。
  

〔大連のまち〕
 大連(の市内)は、本当に美しいまちです。
 中山広場や、友好広場、勝利広場など、市内の繁華街は美しく、夜ともなればネオンがきらめく、すばらしいまちです(写真@A)
 また 半島の南の海沿いを車で走れば、美しい星海公園や老虎灘(ろうこたん)などがあり、すばらしい景色です(写真B)
 ゴルフには行きませんでしたが、私の大学時代の同級生で、よく大連に出かけて仕事をしている友達の話によると、大連のゴルフ場はすばらしいとのことです。半島の南を回っていると軍港があり、中国の軍艦が停泊しているのが見えます。すると、「ああ、これが現実なんだ!」と思い知らされるはずです。さらに大連市内の大連駅から北東へ約20分位歩けば、大連の海港があります。いまも大連への、あるいは大連からの海の旅行の港として利用されているもので、デッカイ港です。
 

〔旅順のまち〕
 私ははじめて知りましたが、旅順は、反日感情がきわめて強く残っているまち、だという事でした。
 なぜかというと、旅順には、日中戦争の時代、「旅順監獄」があり、多くの中国人がここで、拷問をうけたり、死刑執行をされたりしたためです。ほとんどの日本人は、旅順といえば、日露戦争における二〇三高地の激戦ばかりが印象にあり、日中戦争時代における、中国人迫害の事実は全く知りません。ガイド本によると、二〇三高地や水師営の見学をメインとした「旅順ツア−」は、日本人旅行者のリクエストが多かったため、外貨獲得を目指す中国側の方針でやっと1996年から実施されたとのことです。しかし この日本人向けツア−では、日中戦争の跡が生々しく残る「旅順監獄」はもちろん、各種記念物を展示している「旅順博物館」も、見学は「不可」とされています。
 中国の人、旅順の人は今でも「旅順監獄」で、当時そのままの囚人服や拷問の道具、死刑執行場などを現実に見ているわけですから、反日感情が強く残っているのはあたり前だ、と強く感じました。
 今年の夏(2001(平成13)年8月)、大きな問題となった、小泉総理大臣の靖国参拝問題における中国の強硬な姿勢は、この経験からよく理解できました。


〔瀋陽のまち〕
 瀋陽は、大連から車で高速道路を約4時間北東へ走ったところにあります。ここは大連に比べればまだまだ「いなかのまち」です。

1 「9・18事変陳列館」

 ここで驚いたのは、何といっても「9・18事変陳列館」です(写真CDE)
 1931(昭和6)年9月18日、瀋陽(奉天)で発生した、日本でいう「柳条湖事件」は、関東軍が満州を日本の支配下におくため、柳条湖付近で自ら鉄道を爆破したうえ、これを中国軍の行為によるものであったとして、これを口実に中国の東北地方への軍事行動を開始した事件として有名です。
 この「9・18事変陳列館」は、広大な敷地内の巨大な建物内で、日本帝国主義が中国への侵略を開始してから、日本敗北に至るまでの資料を、ろう人形などによってわかりやすく、展示している記念館です。
 「百聞は一見に如かず」。とにかくこれを見れば、日本人の歴史からみた「日中戦争」、と中国人の目でみる「中日戦争」の違いを明確に認識せざるを得ません(どちらが正しいかは別問題として)。


2 「ヌルハチの故宮」

 瀋陽でのもう一つの見どころは、「ヌルハチの故宮」。ヌルハチは1625年に中国の後金(後の清王朝)を建国した初代皇帝(治祖)として有名です。そのヌルハチの遷都によって、瀋陽が後金の都となり、故宮が建設されたのです。その故宮は、中国何千年の歴史を感じさせる、そりゃ立派なものでした(写真FG)
 

3 「張学良旧居陳列館」

 それからもう一つ。瀋陽には「張学良旧居陳列館」があります(写真HI)
 関東軍の「柳条湖事件」(奉天事件)によって殺された「張作霖」、の息子の「張学良」は、中国東北地方の軍閥のボスとして、激動の時代を生きた人物です。
 張学良は、張作霖の後を継いで、中国東北地方の実権を握った軍閥です。父親を日本軍に殺された張学良は、当然、抗日派でしたから、蒋介石の国民党による中国統一を支援して、日本軍と戦いました。
 しかし、蒋介石の共産党嫌いは強く、共産党との内戦を日本軍との戦いよりも優先しました。蒋介石の命令に従って、共産党討伐に従事していた張学良でしたが、日々、日本軍に中国本土が侵略される中、抗日統一戦線の結成を呼びかける共産党の主張に次第に共鳴し、ついに、1936年、西安事件をおこします。
 張学良は、共産軍討伐の督促のために西安に入った蒋介石を、西安の地に軟禁し、共産党との内戦の中止、抗日統一戦線の結成を迫ったのです。
 この事件が契機となり、第二次国共合作が成立し、抗日統一戦線の下に、中国は日本軍と戦います。
 1945年、日本の敗戦。そして、1949年、中華人民共和国の成立。しかし、これにより、国民党は台湾へ渡り、蒋介石は台湾の総裁となります。張学良は、西安事件の後、蒋介石に捕らえられ、そして、戦後も台湾で1989年末まで軟禁されます。
 しかし、新たに建国された共産国家の中国では、西安事件を起こして、国民党と共産党の抗日統一戦線を実現させた張学良を「愛国将軍」と呼び、高く評価します。
 そして、中国の共産党政権は張学良に対して中国への里帰りを呼びかけましたが、張学良は自分の立場が政治的に利用されるのを嫌って、1994年以降、ハワイで過ごします。張学良は、2000年6月、数え年で100歳を迎えました。
 このような資料がいっぱい詰まっている「張学良旧居陳列館」を見る中で、私はあらためて日中戦争の時代の中国史の勉強をすることができました。