将   棋
〔私の将棋のスタンス〕


1.将棋との出会い

 私は中学2年生頃、将棋の面白さと出会いました。
 そのきっかけは、1歳違いの兄がちょっと将棋の定跡本を読んで「矢倉囲い」を覚えたため、「一回やろうか!」と言って将棋を指しても必ず負けるようになり「こりゃ、将棋の勉強をしなきゃダメだ」と思ったことです。
 定跡本を読み、新聞の将譜を切りとってコマを並べ、土、日曜日毎に将棋の好きな4〜5人が集まって将棋を指す、こういう生活を数カ月続けるうちに私の棋力は自然にアップし、兄にはまず負けることはないようになりました。
 

2.将棋の勉強
(中学時代)


 そうするとますます将棋が面白くなり、「将棋世界」と「近代将棋」の2大雑誌を毎月買って1人で勉強を続け、毎週の友人との「手合い」でその力をはかっていました。
 そして自分では、「将棋は実力だけで自分をはかれる世界で面白い」、「オレも大学受験なんかやめて、将棋指しになろう」と、当時誰もが憧れた升田幸三九段への弟子入りを、松山の片田舎から夢見たのです。自分としてはかなり本気でした。だって、自分の実力がどの程度かということをはかる、ものさし自体が少なかったわけですから。
 

3.1つの転機

 そんな私の将棋への情熱と変な夢を心配した両親から、ある時、「松山でアマ四段の人がいる。その人のところへ行って1度教えてもらうか。」と言われました。
 もちろん私は喜んでオーケーし、勇んで1局指してもらいました。もちろん最初は平手で。自分としてはかなりいいところまでいったつもりでしたが、結果はもちろん負け。そして2局目は飛車・角落ち(いわゆる二枚落ち)の対局となりましたが、二枚落ちの定跡を私は全然知らなかったため、自分流で指して結局負け。自分の実力の程を知る結果となりました。
 中学3年生頃は、こんなこともあって、学校の成績は200人中の150番目位で、これではとても東大、京大、阪大など国立の1期校へは進めないと言われ、自分でも多少反省しました。さらに中3から英語で成績別コースに分けられて、自分がビリのCコースに入れられたこともあり、やはり多少はまじめに勉強しなきゃダメだなと考え、将棋は控え、勉強に精を出すことになりました。
 それでも学校の帰りに卓球場に通ったり、柔道の同好会で柔道クラブのまねごとをしたり、といつも勉強以外のことを何かやっていました。
 

4.大学時代

 大学では「将棋部」というレッキとしたサークルがあります。ここに入れば、「ひょっとすればプロにも」という道もあるくらい、大変なサークルです。
 私は大学に入学した時は、サークル選びの候補の1つには考えていましたが、結果は自分でも全く予想しなかった「裁判問題研究会」というサークルに入りました。
 これは、強力な勧誘と、同じクラスにいた50名中2名の女子学生の1人から勧められたため、というのが実質的な動機です。それはとにかく、このサークルへ入ったことが大きな転機となりました。つまりこれにより、私は大学の1〜3回生はいわゆる「学生運動」ばかりの生活に入りこむことになったのです。
 従って将棋どころではありません。時々、遊び半分で誰かと将棋を指しても、2枚落ちで負けることもなく、全然面白くなくなって、結局指さなくなってしまいました。


5.修習生時代

 1972 (昭和47)年〜1974 (昭和49)年の2年間、司法修習生の時代がありましたが、うち1年半は、当時千葉県松戸市にあった寮に入り、ここから湯島の司法研修所まで電車で通いました。
 寮では生まれて初めての集団生活を経験しましたが、当然そこには、「寮祭」など各種の行事がありました。
 その1つとして「将棋大会」も「囲碁大会」もあったため、久しぶりに将棋に燃え、大会に出場しました。全国から約150名が寄り集まっている訳ですから、当然何名かの将棋の腕自慢がいます。その中で競うわけですが、私は結果的に入賞しました。ほとんど実戦をやっていなかったので、将棋のカンはだいぶ忘れていましたが、何とかしのいで、入賞することができました。


6.弁護士登録をしてから

 弁護士になってからは仕事に追い回され、ゆっくり将棋を指す時間などとてもありませんでした。
 なお、大阪弁護士会でも、年1回将棋大会、囲碁大会をやっています。(AクラスとBクラスに分けて)。私も1度だけ出たことがありますが、とても時間がとれず、「こりゃ、かなわん。」ということで、リタイヤしました。でも大阪弁護士会の、将棋好きな弁護士約10名は毎年この大会で頑張っている様です。
 

7.将棋の初段の免状のこと   免状

 私は1974(昭和49)年に大阪弁護士会に弁護士登録し、すぐに大阪国際空港弁護団に入りました。
 その弁護団の事務局長をされていたのが、久保井一匡先生(2000(平成12)〜2001(平成13)年の日弁連会長)です。久保井先生は理論家であり、かつエネルギッシュ、その上若手の面倒見がいい、という何拍子もそろったすごい先生でしたが、たまたま趣味が将棋ということでした。
 あまりにも忙しすぎて、現実に対局する暇はほとんどありませんでしたが、久保井先生から「一定の棋力があれば、将棋初段の免状はすぐにもらえるよ」というお話をきき、私もすぐに手続をとり、めでたく1975(昭和50)年12月1日、日本将棋連盟から、
  『夙ニ将棋ニ丹念ニシテ研鑚怠ラス進歩顕著ナルヲ認メ滋ニ初段を栄詳ス』
      会長 塚田正太
      名人 中原誠 
      永世王将 大山康晴
の免状をいただきました。手続をとればもらえるものではありますが、これは決してインチキなものではなく、実力「初段」は正真正銘のものです。


8.法苑『弁護士業務と将棋の「読み」』の執筆 法苑108号

 1997(平成9)年、新日本法規出版から、小冊子「法苑」に、何か趣味のことでも軽い読み物として書いてくれないか、との連絡がありました。
 そこでいろいろ考えた挙げ句に、当時NHKの朝ドラでやっていた「ふたりっこ」をネタにして、『弁護士業務と将棋の「読み」』という小文を書きました。まさに将棋の読みと弁護士の業務よく似ているという実感から浮かんできた文章です。それにしても、あの「ふたりっこ」は面白かったです。毎朝よく見ていました。
 

9.テレビ(毎週日曜日)での「NHK杯テレビ将棋トーナメント」のこと

 NHK教育テレビでは、日曜日朝10時〜12時まで「NHK杯テレビ将棋トーナメント」を放送しています。今年で51年目です。私はこれが好きでずっと見ています。
 昔は寝坊してパジャマを着たまま家で、ここ10年位は大体フィットネスクラブで運動をしながら見ています。また、ゴルフなどで見られない時はビデオに録画してその日の晩に、という形でずっと見ています。早指し将棋なのでプロ棋士といえども、時々ミスは出るし解説付きなので、見ていて非常にワクワクするものがあります。また、その時代、時代のはやりの戦法がよくわかり、大変勉強になります。
 羽生善治四段が中学生でプロデビューし、制服を着てテレビに出てきた時(1985(昭和60)年)はすごかった、というより恐かったです。上目遣いにジロッと睨む姿は大変異様な感じでした。
 すでにそれから15年。時代が流れるのは本当に早いものです。
  

10.プロ棋士の魅力−その1例−米長邦雄永世棋聖の多才ぶり

 米長邦雄氏は、時代としては中原誠氏のライバルと位置付けられます。1973(昭和48)年棋聖戦で初タイトルを取って、ずっとトップ棋士の地位を保ち、1993(平成5)年、史上最年長で名人位についた棋士で、今はA級を退いています。
 彼は一昔前の大山康晴名人の兄弟子かつライバルであった升田幸三九段と、一面では似たユニークさをもった、いわば、「哲学者」だと私は思っています。将棋の世界のトップになる人は、みんな天才だから、多種多様な才能を持っていることは当然(例えば、内藤國雄九段はプロ歌手)ですが、米長邦雄氏のような、文筆の才と雄弁の才を合わせもった人は、少ないのではないかと思います。

 彼は、東京都の教育委員会の委員となったり、産経新聞の「正論」の執筆陣の1人となったりして、いろいろとその思うところを書いていますが、その着眼点や洞察力は、さすが勝負師と感心させられるものばかりです。特に、「教育問題」と「女性問題」はユニークかつ辛辣で、形式的な男女平等論者などは、たちまち論破されてしまうでしょう。ちなみに、彼の文章を2つ掲げてみます。

◇「教育が乱れ、政治が乱れ、経済が乱れ、社会が乱れ・・・の混迷する日本ですが、その根にあるものを1つひとつたどってゆけば、結局、男は男らしく、女は女らしく生きてはいないから、じゃないでしょうか。」
 「結局、今の日本で一番大切なのは、男を“恕す”ことのできる素敵な女性を1人でも多く育て上げることだという。」
          〔1998(平成10)年7月19日 産経新聞 朝刊〕

◇「先ずは第一声。全ては母親で決まる。子供の運命は母親が握っている。教育界に問題があるとすれば、それは母親に問題があるからだ!」
 「将棋の弟子を採る時、プロで大成するかどうかは母親を見ればすぐ分かる。夫婦仲が良ければ合格。妻が夫を尊敬していれば二重丸。」
          〔1999(平成11)年9月17日 産経新聞 朝刊〕

この2つの言葉を聞いても、その含蓄の深さには驚かされます。とにかく将棋のプロ棋士には多様な才能があり、非常に興味深いものがあると、私は思っています。


11.大崎善生著『聖の青春』のこと

 NHK杯のテレビでよく見た棋士に「村山聖(さとし)」がいます。まん丸い、というより、プクッとほっぺたがふくらんで、何となく愛らしい、子供みたいな雰囲気の棋士です。彼が登場した時は、「面白そうな棋士だなあ」、と思いながら見ていました。
 そんな折、何気なく新聞を見ていたら、「プロ棋士の村山聖死亡」というニュースが目に入りました。「えっ、なんで!」と思って記事を読むと、彼はネフローゼという病気をもっていたこと、そして、この病気と戦いながら、名人位を狙えるA級1組まで昇段したこと、しかしその病気のため29歳という若さで死亡したこと、をはじめて知りました。

 2000(平成12)年2月、『聖の青春』という村山聖の一生を描いた本が出版されたことを知り、早速購入し、これを読みました。
 途中、何度も涙が流れてとまりませんでした。こんなに感動し、涙を流しながら本を読んだことは学生時代以来ありませんでした。
 村山もすごければ、その師匠となった森信雄もすごいです。将棋という、全くの個人プレーの勝負の世界で、1勝1敗に命を賭けるプロの世界なればこそ生まれる奇妙な師弟愛。こんな結びつきがこの世界にあったんだということに本当に感動しました。
 北条秀司の戯曲「王将」で描かれた、坂田三吉も同じですが、とにかく「勝負の厳しさ」に生きる男の美学のようなものを感じます。
 プロ棋士となって死ぬまでの、村山聖の成績は、356勝201敗(勝率6割3分9厘)という素晴らしいものですが、彼にとってその数字は単なる結果論でしょう。彼にとっては、プロ棋士になれたことが最大の「夢の実現」だった筈です。そして、プロ棋士になってからの1勝、1敗は、その1つ1つが自分の生命を切り刻んで築いてきたものだと思います。 

 この本を読んでから私のテレビのNHK杯を見る目も多少変わりました。羽生善治、森内俊之、佐藤康光ら、若手の模範となる紳士然とした天才や、先崎学や、神吉宏充など面白おかしく解説するユニークな天才、そして阪神大震災の後もなお活躍を続ける関西の雄、谷川浩司、などテレビでいつも見ている棋士の顔が非常に身近なものに感じられるようになったのです。
 みんな、1局、1局の勝敗に生命を賭けて生きている、プロの将棋の世界。
 戦後55年経った今、あまりにも安易に生きているのではないかと思われる日本の多くの若者に、彼らプロ棋士のギリギリの闘いの姿を見てもらいたいし、感じてもらいたいと本当に思いました。
 この本は何度読んでも、どこを読んでも涙が出てくる本です。
 このホームページにアクセスした人は是非、御自身で、そして自分のお子さんにも是非読んでもらいたいと思います。