映   画
〔私の映画へのスタンス〕

1.小学校時代
 
 父親がもらっていた映画のチケットで連れて行ってもらったり 、試写会などによく連れて行ってもらいました。大川橋蔵、片岡千恵蔵、美空ひばりなどの、古い東映「チャンバラ映画」にはよく連れて行ってもらったし、試写会では最新の洋画もよく観ました。『シェルブールの雨傘』や『シャレード』などは今でも強く印象に残っています。
 また、小学校の時に学校推薦で観た『にあんちゃん』(長門裕之主演)などは、今でもよく覚えています。


2.中・高校生時代

 中・高等学校では、「原則的に」1人で映画館に行くことは禁止されており、推薦の映画だけしかダメでした。『スパルタクス』『ベンハー』『キングオブキングス』『サウンド・オブ・ミュージック』など、学校推薦のものは、全部観ました。『サウンド・オブ・ミュージック』は特に好きで、友人と計7回観に行き、映画館の中で写真を撮って大きく現像したりもしました。
 中学に入ってからは、日曜日・休日は仲間との将棋の手合いと1人での「映画」館通いと決まっており、1人で「3本立て55円」の洋画の映画館と日活の映画館に通いました。
 石原裕次郎・小林旭をはじめ、吉永小百合・浜田光夫の純愛コンビ、山内賢と和泉雅子のコンビなどは、ほとんどすべて見ていますし、映画の主題歌もほとんど覚えています。裕次郎と結婚した北原三枝やいつも共演していた若い時の浅丘ルリ子は本当にきれいでした。洋画もジョン・ウェイン、オードリー・ヘップバーンをはじめ、有名なハリウッド映画を含めて、実に多くの洋画を観ています。

 当時『映画の友』と『スクリーン』という2大映画雑誌があり、少ない小遣いの中、新刊は買えないので、少しおくれた古本を買って、家の中で1人で自分の部屋にこもって食事をしながら、ラジオを聴きながら、隅から隅まで読んでいました。カトリーヌ・ドヌーブ、スザンヌ・プレシェット、クラウディア・カルディナーレなど今でも名前がスラスラと出てくる往年の大スター、そして毎年の10大スターの移り変わりや、突如あらわれた新星スターなど、中・高時代はほとんどすべての俳優(とくに美人女優)を覚えていました。
 大学受験の時まで、1人での映画館通いは続き、実に多くの映画を観ました。この時期に観た映画は、全部当時の手帳に記録していますが、その手帳は、今も松山の実家の私の机の引き出しの中に埋もれている筈です。
  なお、当時のスウェーデン映画の話題作『沈黙』は、成人指定で、とても観たかったのですが、結局勇気がなく観ることができませんでした。今でも残念で、よく覚えています。


3.大学時代

 1967(昭和42)年に阪大に入ってからは、阪急の石橋駅や池田駅周辺には、映画館が少なかったこともあって、映画館通いは減りました。しかし、当時、梅田の毎日新聞の横にあった「大毎地下」での名画鑑賞と、兄が住んでいた京都に行くたびに「祇園会館」での名画鑑賞(いつも安くていいものをやっていた)は、習慣となっていました。また、当時はやりの、「日活ロマンポルノ」は時々1人で観に行き、「すごいな」と感心したり、興奮したりしたものです。
 大学2回生の時には、松山から出てきた後輩の女の子を「社会見学」と称して、源平合戦を題材にした日活ロマンポルノの鑑賞に連れていったりもしました。また、夏休み、春休み、正月休みなど松山に帰省すると、当時、奥道後にできていた「奥道後温泉」の一大リゾート施設は、入館すれば映画はタダで見放題、というシステムであったため、中・高時代に見ることが少なかった東宝や大映の映画(市川雷蔵の眠り狂四郎シリーズや勝新太郎の悪名、兵隊やくざシリーズなど)を片っ端から観ました 。


4.司法試験の受験時代、司法修習生、弁護士登録の頃

 さすがにこの時期はほとんど映画館には行っていません。時々、デートの時にその時の人気のものを観る程度となりました。
  しかし他方、この頃からビデオが普及しはじめ、オーディオ好きな私は早い時期にビデオを購入していたため、テレビの洋画劇場などでやる映画は録画してよく観ました。
 また年末年始は、ビデオ3〜4台を総動員して、片っ端から映画を録画し、これをよく観ました。
 そのビデオテープの数は、百本ほどにもなっていますが、実はすべてを観ているわけではありません。
 年末年始、テレビは特番モノが多く、時代劇スペシャルとか、いいものをやっています。また1月2日は12時間ドラマを毎年やっています。また8月15日には、いつも気になる戦争モノのドラマがあるため、これらはいつも録画して、観ていました。
 従って、映画館にいく回数こそ少なくなったものの、映画やドラマを観る時間はそんなに減っていません(この頃はWOWOWなどはまだできていない)。


5.1996(平成8)年2月 大阪市内へ転居してから

 1996(平成8)年2月、自宅を大阪市内に移転しました。
 この時、サンケイ新聞の勧誘があり、サンケイ新聞を3年間とってくれれば、映画のチケットをサービスしてくれるという条件が示されました。何よりも映画のタダ券の勧誘にのり、サンケイ新聞をとるようになりました。そして、これによってサンケイ新聞の面白さに目覚めるとともに、このチケットにつられて、映画好きが再発しました。以降、タダ券の消化のためにも映画鑑賞の時間を優先的にとるようになりました。
 これは同時に予告編をいつも観ることになったため、次回、次々回と興味が広がることになりました。また新聞紙上での宣伝や映画解説、映画評論を切り取り、スクラップするようにもなりました(これは自分の将来の映画評論の準備、参考のためです)。


6.1997(平成9)年から

 ミュージカルなどの人気のものは、弁護士になってからも時々観ていましたが、1997(平成9)年1月に 『イングリッシュ・ペイシェント』を観て感動し、はじめて映画のパンフレットを購入しました。
  実は、それまでは映画をみても、パンフレットを買う習慣はありませんでした。しかし、この映画を観た時に、その感動を「映画評論」のような形で残せないか、と思い、そのためには当然資料が必要、そしてパンフレットの購入が不可欠と考えて購入しました。それまではパンフレットなどは、買ってもどうせ読まないし、積んでおくだけだからという考えでしたが、この時から明確に、「将来映画評論を書くんだ、また、それで原稿料をもらうんだ」という意識に変わっていきました。
  従ってこの時から、いつ、何を観たかを、手帳に書き留めるようになりました。


7.「映画評論」のスタート(2000(平成12)年1月)

 まちづくりの関係でいろんな本の出版をやっている中、自分の趣味の映画鑑賞を映画評論という形にすれば原稿料をもらえる、そうなれば趣味と実益が一致する、どこか載せてくれるところはないか、と考えて知り合いの出版社にいろいろと声をかけていたところ、1999(平成11)年8月頃、新日本法規出版から『法苑』という小冊子に「弁護士の目でみる映画評論」を書きませんか、というお誘いがきました。私は喜んでこれをOKしました。
 そして『法苑』118号(2000(平成12)年1月号)に「弁護士の目でみる「映画評論」その1  『レインメーカー』にみるアメリカ法廷映画の面白さ」
を掲載してもらいました。  法苑 118号
 同時に、「この映画評論は4回連載でやります」ということも了承してもらいました。これ以降、私の映画館通いは単なる趣味の域をこえ、多少なりとも「仕事」という大義名分が立つことになりました。なぜなら、観た映画をネタに映画評論を書いてわずかでも原稿料をいただくことになったのですから。以降、
 2回目 『法苑』119号(2000(平成12)年4月号)   法苑 119号
    「弁護士の目でみる「映画評論」その2 『金融腐蝕列島・呪縛』を考える」 
 3回目 『法苑』120号(2000(平成12)年7月号)   法苑 120号
    「弁護士の目でみる「映画評論」その3 
        『プライベート・ライアン』と『梟の城』に見る「公と私」」
 4回目 『法苑』124号(2001(平成13)年7月号)  法苑 124号
    「弁護士の目でみる「映画評論」その4 陪審映画あれこれ」
と映画評論を書きました。なお、2000(平成12)年にはG出版社との間で、また2001(平成13)年4月にはK雑誌社との間で映画評論執筆の話し合いがありましたが、企画がうまく合わず、残念ながら実現しませんでした。しかし映画評論(演劇評論などを含む)は、今後も私の趣味と実益を兼ねた分野として、是非拡大していきたいと考えています。
 ――――――――――― (ここまで2001年9月記)―――――――――――― 

 ――――――――――― (ここから2012月2月記)―――――――――――― 
8.『SHOW−HEY シネマルームT』の自費出版!
 
 『法苑』への映画評論の執筆と2000年10月のホームページ開設によって、ホームページに趣味のページとして映画の欄を設けることにしたため、その当時観た映画で印象に残った作品の映画評論を書き、ホームページにアップし始めました。それが一定のボリュームになったため02年6月、記念すべき映画評論本第1号を『SHOW−HEY シネマルームT〜二足のわらじをはきたくて〜』と題して自費出版しました。

9.『SHOW−HEYシネマルーム』U、V、5はオール関西で出版!

 『シネマルームT』の頃は料金を払って映画を観ていましたが、その後次第に映画関係者から試写の案内を頂くことが増えたため、昼間の試写会通いが始まりました。それに伴って、映画の数が増えるとともに評論の数もみるみるうちに増え、『シネマルーム』UとVそして5はオール関西株式会社から出版のコード番号をとって出版することになりました。

10.産経新聞『That’s なにわのエンタメ』(03年10月〜07年6月)(3年8
   カ月、月1回、全34回)
 
 その頃、産経新聞の記者から産経新聞に月1回私の映画評論を連載しようとの話が持ちかけられたため、即座にOKし、2003(平成15)年10月から2007(平成19)年6月まで、月1回『That’s なにわのエンタメ』と題する連載が続きました。

11.『SHOW−HEY シネマルーム』4、6以降21までは文芸社で出版!(0
   4年11月〜09年5月)

 
 U、Vと出版を続けている時に文芸社と知り合い、4と6以降は文芸社から出版することになりました。映画の数が増えるとともにその出版は04年11月から09年5月まで4年半も続くことになり、一番多い時は、年間5冊も出版しました(08年に『シネマルーム』15〜19)。

12.大阪日日新聞『弁護士 坂和章平のLAW DE SHOW』(07年11月〜
   09年12月)(2年間、週1回、全111回)

 
 そんな中、時々試写室で出会っていた大阪日日新聞の畑山博史さんから、大阪日日新聞に週1回私の映画評論を連載しないかとの話が持ちかけられたため、即座にOKし、2007(平成19)年11月9日〜2009(平成21)年12月26日まで、週1回『弁護士 坂和章平のLAW DE SHOW』と題する連載が続きました。

13.『SHOW−HEY シネマルーム』22以降は年間2冊、「上半期50作」、
   「下半期50作」を自費出版!(09年8月〜)
 
 一番多い時は1年間で330本も観ましたが、当然それだけ観るのは大変だし、書くのも大変です。また、つまらない映画をわざわざ時間を使ってつまらないと書くのは少しバカらしくなってくるとともに、似たような内容でレベルの低い邦画には少し飽きてきました。さらに、文芸社から大量に出版した『シネマルーム』がほとんど売れず大量の在庫を抱えてしまったため、出版コードをとっての販売戦略はあきらめざるをえなくなりました。そこで『シネマルーム22』以降は「上半期50作」、「下半期50作」にしぼって年間2冊を自費出版することとし、2009年8月に『シネマルーム22』を出版しました。この時点では評論書きのテクニックはもちろん、パソコンを使っての映画本づくりのテクニックも十分身につけていたため、目次づくりやコラムづくりから、画像の提供依頼もすべて自前でやれるようになっていました。しかして、この「上半期50作」と「下半期50作」は、事務所だよりの新年号と盛夏号と一緒に親しい方々に配布するスタイルが『シネマルーム』22から29(09年8月から12年12月)まで定着しています。