[2日目]・・・2019年11月18日(月)
                       写真1-1~8-9
1 チャーターしたタクシーでホテルを出発
 今日は徐潮さんが1日休みを取って、「南部戦跡巡り」の観光にも夕食にもつき合ってくれる。そこで午前9時に、ホテル前で、6時間12,800円でチャーターしたタクシーに乗り込み、出発。天気予報は午前中曇り、午後から雨だが、“晴れ男”の私だからきっと大丈夫だろう。そう思いつつ、平和祈念公園やがま(洞窟)の見学はできるだけ午前中に。そして雨でも大丈夫な建物内での見学は午後にするべく大雑把な計画を立て、まずは旧海軍司令部壕へ。

2 旧海軍司令部壕 見学(写真2-1~5)
 「ミッドウェイの戦い」における勝利で反転攻勢に転じた米軍は、太平洋上で飛び石作戦(Isrand Hopping)を決定。これは、ラバウルなどの侵攻困難な日本軍基地への上陸を避けながら、サイパン島など日本本土に近く、日本軍の戦力が弱い拠点を集中的に攻撃し陥落させ、兵力の消耗を防ぐ戦術だ。その結果、日本軍はラバウル島、トラック島、ニューギニア諸島等を次々と失った末、サイパン島での戦い(1944年6月15日~7月9日)や硫黄島の戦い(1945年2月19日~3月26日)で玉砕した。ちなみに、硫黄島の戦いは、『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』2部作で詳しく描かれていた。
 すると、次は台湾や沖縄だが、米軍は台湾を避けて沖縄攻撃を決定した。日本軍は南からの上陸を想定したが、予想に反して米軍は中西部の慶良間諸島に1945年3月26日に上陸し、4月2日から南と北の二方面に分かれて全面攻撃を開始し、6月23日にすべての戦争は終了した。そんな中、沖縄の海軍司令本部が果たした役割は?
 旧海軍司令部壕は1944年に持久戦続行の陣地として設置された(写真2-1、2-2)が、沖縄に日本の軍艦そのものがいなくなってしまう中、沖縄の海軍司令本部は結局海軍としての機能を全く発揮できなかった。したがって、旧海軍司令部壕は大田實司令官が自決するだけの場所になってしまったのは悲しい限りだ。
 全長約500mの壕の中は想像以上に立派(写真2-3~5)。『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』2部作でみた壕ほどの広さはないが、それでも見学できる約300mの壕を歩いていると、その当時の生々しさを十分実感できる。今ドキの日本の若者はこういうものをしっかり自分で歩き、その時の状況に想像力を巡らさなければ・・・。

3 ひめゆりの塔 ひめゆり平和祈念資料館 見学(写真3-1~7)

 沖縄の南部戦跡巡りのメインは、ひめゆりの塔の見学。「ひめゆり部隊」の悲劇を描いた映画やドラマは多い。学徒隊の生存者22名の証言を基に、1945年4月~6月までの15~19歳の少女222名の生きザマと死にザマを赤裸々に語ったドキュメンタリー映画『ひめゆり』(07年)(『シネマ15』246頁)も胸を打ったが、その代表は、今井正監督の『ひめゆりの塔』(53年)(リメイク版82年)だ。そこで、まずはひめゆりの塔の前で合掌し(写真3-1、3-2)、ひめゆり平和祈念資料館を見学(写真3-3~7)。

4 平和祈念公園(写真4-1~11)
 次に向かったのは、沖縄平和祈念公園。この広大な敷地を持った公園には、①平和の礎②沖縄県平和祈念資料館③沖縄平和祈念堂等があるので、順次見学(写真4-1)。
(1)平和の礎(国立沖縄戦没者墓苑)
 沖縄戦終戦50周年に建立された平和の礎(国立沖縄戦没者墓苑)には、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦等で亡くなった国内外すべての人々の氏名を刻んだ碑がある。そして、その碑面には都道府県別、国別に名前が刻銘されている(写真4-2)。
 私が驚いたのは、祈念公園内では都道府県別にそれぞれ敷地(ブース)を取り、都道府県別に沖縄戦での戦没者が祀られていること(写真4-3、4-4)。平和祈念公園内は車での走行が禁止され、公園専用のカート(ゴルフ場のカートと同じ)で回るが、その運転手の説明によると、その場所取りは先着順で決めたとのこと。また、戦没者の慰霊祭も都道府県それぞれの都合で個別に決めているそうだ。そこで私の疑問は、なぜそんな風に都道府県別にやっているの?ということ。だが、その質問に対する運転手の答えは、わかったような分からないような・・・・。
(2)沖縄平和祈念堂(4-5、4-6)
 高さ45mの正七面体の塔は、公園の中でもひときわ目立っている。その中には、沖縄県出身の山田真山氏によって造られた、漆製の平和祈念像が安置されている。ここはカートの上からの写真撮影のみで、見学は省略。
(3)黎明之塔、第32軍司令部壕、建児の塔の見学(写真4-7)
 平和祈念公園は多くの観光客が訪れるが、その奥にある黎明之塔、第32軍司令部壕、建児の塔を訪れる観光客は少ないとのこと。それは、カートが不便なことと、少し歩かなければならないためだ。しかし、それならカートの便を増やし、もっと案内人やボランティアを増やせばいいのでは?ちなみに、大阪城公園は今や多くの観光客であふれかえっているが、これは民営化したことの功績と共に、観光ボランティアを数多く養成したことの効果が大きい。それに比べると、平和祈念公園のカートの運転手は横柄で態度も悪く、説明も紋切り型だ。その上、カートの台数が少なく時間も不定期だから、予定を立てにくいことこの上ない。そんな不満を持ちつつ、黎明の塔へ。
 まず第1に黎明之塔を見学(写真4-8)。これは、沖縄県と南西諸島の守備に任じられた、第32軍司令官の牛島満大将と参謀長の長勇中将を祀っている慰霊塔だ。次に、第32軍司令部壕、すなわち牛島司令官が自決したという壕を見学(写真4-9)、第3に建児の塔を見学するつもりだったが、時間不足のため省略。
 ここは沖縄島の最南端だから、米軍に追いつめられてもはや逃げる場所を失った島民には、崖から身を投げて自殺した人も多い。崖から今の海を眺めれば美しいが、74年前のそんな姿を想像すると・・・。(写真4-10、写真4-11)
(4)沖縄県平和祈念資料館
 運転手さんの話によると、沖縄県平和祈念資料館は広大な建物で、膨大な資料を備えているが、ひめゆり平和祈念資料館資料館に比べると人気がないらしい。しかし、時間があったので中に入ってみるとその話とは大違いで、内部の充実ぶりにビックリ!2012年8月に南京の侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館を見学した時は、その規模の大きさと資料の充実ぶりに驚かされた。沖縄県平和祈念資料館の充実ぶりはそれには到底及ばないものの、かなりのものだから、これはおすすめだ。

5 糸数アブチラガマ 見学(写真5-1~3)
(1)アブとは深い縦の洞穴、チラとは崖、ガマとは洞窟のこと。つまり、沖縄戦ではこのアブチラガマ(自然の洞窟)が多くの民間人の避難場所になったわけだ。そこは同時に、日本軍の作戦陣地や野戦病院にもなった。したがって、米軍が沖縄島の南端に迫ってくる中、アブチラガマの中で同居することになった軍人と民間人たちの運命は?
(2)真っ暗闇のガマの中に、懐中電灯の明かりだけを頼りに入り、当時のガマの中での生活を体験。それが、「糸数アブチラガマ 平和への願い新たに」の観光目的で、入壕料は大人250円。ヘルメット必着で、ハイヒールはもちろんダメ。下りでは滑らないよう細心の注意を払いながら、時々は岩に頭をぶつけないようにとの注意も。先行するガイドに従って、恐る恐る真っ暗なアブチラガマの中に入っていくと・・・。
(3)このガマの中には重症患者を含む多くの病人、けが人がおり、医師も3名いたらしい。また、その中で患者の手当てをする看護婦たちには、水汲みや汚物捨て等々のたくさんの雑用があった。換気孔はあるそうだが、この狭くて暗いガマの中がいかに悪臭に満ち溢れていたかは容易に想像できる。
(4)そんなアブチラガマにおけるガイドの説明は極めて生々しいものだから、身に迫ってくるのは当然。しかし、「当時はこんな状況でした。もしあなたがそこにいたとしたら、あなたは?」と、1つ1つの説明のたびに質問してくるので、いい加減ウンザリ。「そんなこと、わかるか!「その時になってみなければ!」「それは性善説か性悪説かが究極的に問われるケースだから、軽々に答えられない!」。何度かそう自問自答していたが、あまりにしつこいので、つい議論(口論?)に・・・。

6 首里金城町石畳町 散策(写真6-1、2)
(1)チャーターしたタクシーの運転手さんはいかにも沖縄の人らしい雰囲気の親切な人であるうえ、沖縄観光に詳しいから、私たちの要望に応えて適切なアドバイスと案内をしてくれる。糸数アブチラガマは、徐潮さんも「1度体験したので是非に」とのお薦めだったが、この運転手さんのおすすめが、首里金城町石畳町の散策。首里城は昨日見学したが、そのすぐ近くにある石畳町は帰り道になるので、運転手さんのお薦めに従って散策することに(写真6-1、6-2)。
(2)午前中は全く雨にたたられなかったが、アブチラガマ見学終了後、帰り道になると、どっと雨が降り始めた。しかし、これは想定内のこと。2時ごろまで全く雨に降られず、しっかり目的のものを観光することができたから、俺は「雨男」の河野太郎外務大臣と違って、やっぱり「晴れ男」であることを再確認!もっとも、2時ごろから降り始めた雨も降ったりやんだりだし、タクシーで移動中の雨はOK。しかして、石畳町散策中は?
(3)運転手も一緒に坂の上から下り始めた時にどっと降り始めたので、一度は引き返そうかとも思ったが、小降りになったので、ゆっくり坂を下まで降りていくことに。すると、運転手さんは「自分は上に戻り、タクシーで先に坂の下で待っている」とのこと。しかして、雨が止んだ中、私たちが石畳町をゆっくり散策しながら下まで下りていくと、そこでタクシーが待っていた。この運転手さんの行き届いた配慮に感心!アブチラガマでの観光ガイドの解説のおしつけがましさには辟易したが、今日の運転手さんのサービスは満点だ。

7 嘉数(かかず)高台公園でトーチカと普天間基地を見学
                                (写真7-1~3)

(1)チャーターしたタクシーの予約は、もともと午前9時から午後3時までの6時間で、12800円だったが、6時の夕食を考えると、5時までは十分観光できるので、5時までの延長を提案すると、あっさりOK。そこで、徐潮さんの提案どおり、県庁前のホテルから少し北の方に足を延ばし、普天間基地を一望できる嘉数高台公園に行くことに(写真7-1)。
(2)沖縄本島中部の宜野湾市にある嘉数高台公園は沖縄戦時の激戦地で、今でも日本軍が使用した「トーチカ」があるそうだ。また、そこには世界平和を願う地球儀をイメージした展望台があり、そこからは普天間基地を離発着する米軍機(オスプレイ)を見学することができるらしい。折りしも雨が強くなり、霧が出てきたため、オスプレイの存在は確認できたものの、残念ながらその離発着を見ることはできなかった(写真7-2)。また、トーチカは中国旅行での旅順203高地の見学で、日露戦争当時のロシア軍のトーチカを見学したが、太平洋戦争中のトーチカははじめて。ここで、「トーチカ」がロシア語であることをはじめて知ることに(写真7-3)。

8 「ライブハウス島唄」でのライブと夕食(写真8-1~9)
(1)昨日の夕食は、沖縄料理に舌鼓を打ちながら、楽しい会話が弾んだ。その中で、徐潮さんから「明日の夕食は、沖縄民謡ライブの居酒屋にしよう」との提案があったので、即座にOK。するとさらに、「沖縄出身の女性4人グループ、ネーネーズを知ってる?」と質問された。一昔前のSPEEDや、「安室ちゃん」こと安室奈美恵、さらに、石嶺聡子やTHE BOOMは私もよく知っているが、ネーネーズは全く知らなかった。しかし、徐潮さんの話によると、ネーネーズはかなり有名らしい。そして、国際通りにある「ライブハウス島唄」でそのライブを聴きながら食事ができるとのこと(写真8-1)。そして11月18日(月)の午後6時から予約できるとのことだった。
(2)その予約が取れていたため、嘉数高台公園の見学を終えた後は、一路ホテルへ。すると、ホテルへ到着したのはちょうど午後5時だった。今日の充実した1日観光に感謝して、運転手さんにチップをプラスして料金を払ってお別れした。そして部屋でシャワーをし、着替えた後、国際通りを歩いて約10分のライブハウス島唄へ。
(3)ネーネーズは1990年に結成された沖縄音楽グループで、「ネーネー」は「お姉さん」の意味。メンバーの入れ替えが数回あったうえ、今は最年長の1人が産休中なので、20歳前後の若い3人で歌っている。6時過ぎに到着し、ビールを飲みながら一通り料理を楽しんだところで、7時きっかりに3人が登場してきた。ステージは7時、8時、9時の3回があり、すべて違う曲を歌うそうだから、席料1人2000円を払えば最大3時間楽しむことができる。料理の味は満足できるし、値段もそこそこだから、こりゃ居心地がいい(写真8-2、8-3)。しかも、3人娘の歌の実力はかなりのものだったから満足(写真8-4、8-5、8-6、8-7)。
(4)ちなみに、あなたは「サー 君は野中のいばらの花か サーユイユイ」で始まる『安里屋ユンタ』を知ってる?この曲は、続いて「暮れて帰れば やれほにひきとめる」とあり、最後は「マタハーリヌ チンダラカヌシャマヨ」と歌われ、7番まで続くもの。しかして、その昔、この「チンダラカヌシャマヨ」が「死んだら神様よ」と読み替えられたことで一躍有名になったため、私もよく知っている曲だ(写真8-8)。また、この曲は「ゆいレール」の車内でも「安里駅」到着時のメロディとしても使われている。そんな曲を含めて2ステージを楽しみ、午後9時過ぎに退店(写真8ー9)。

9 国際通りを歩いてホテルへ。風呂、就寝。
 以上で充実した2日目の日程をすべて終了。すっかり雨の上がった国際通りをぶらぶら散策しながらホテルへ戻り、12階の温泉に入って、就寝。