洋17-42

「家族の肖像 デジタル完全修復版」
    

                  2017(平成29)年3月19日鑑賞<シネ・リーブル梅田>

監督・脚本:ルキーノ・ヴィスコンティ
教授/バート・ランカスター
ビアンカ・ブルモンティ(伯爵夫人)/シルヴァーナ・マンガーノ
コンラッド・ヒューベル(ビアンカの恋人、男妾)/ヘルムート・バーガー
教授の母(回想)/ドミニク・サンダ
教授の妻(回想)/クラウディア・カルディナーレ
リエッタ・ブルモンティ(ビアンカの娘)/クラウディア・マルサーニ
ステファーノ(リエッタの婚約者)/ステファーノ・パトリッツィ
エルミニア(家政婦)/エルヴィラ・コルテーゼ
1974年・イタリア=フランス映画・121分
配給/ザジフィルムズ

<晩年の作品は孤独と老いが顕著!>
 1976年に3月17日に満69歳で亡くなったルキーノ・ヴィスコンティ監督の遺作は『イノセント』(75年)だが、その1年前1974年に彼が68歳の時に作ったのが本作。『山猫』(63年)で圧倒的な存在感を示したアメリカ人俳優バート・ランカスターが、本作でも老教授役で主演している。
 『山猫』でバート・ランカスターが演じたドン・ファブリチオ・サリナ公爵はシチリア島の名門貴族として一門を率いていたから、一方では自分の老いと孤独を感じながらも、まだまだ売春婦を買いに行くほどの元気(?)を示していた。しかし、本作冒頭のローマ市の中心地の豪邸に「家族の肖像」と呼ばれる18世紀の英国の画家たちが描いた家族の団欒図に囲まれながら一人で住んでいるバート・ランカスター扮する老教授が、虫眼鏡でその絵を点検している(?)シーンを見ると、それだけで彼の孤独と老いがひしひしと迫ってくる。『ベニスに死す』(71年)でも、主人公となるドイツ人の作曲家・指揮者であるグスタフ・アッシェンバッハの孤独と老いが最初から顕著だった(『シネマルーム27』202頁参照)が、本作も全く同じだ。
 私は今年1月に68歳になったが、ヴィスコンティ監督が67~68歳の時に作った本作でこのように孤独と老いを強調されると、私はヴィスコンティ監督や本作の老教授のような貴族ではないし、豪邸での孤独な独り住まいではないものの、「家族の肖像」という本作本来のテーマよりも、付随的なテーマ(?)である老教授の孤独と老いの方に、ついつい興味の焦点が集中していくことに・・・。

<ドラマの幕開けは闖入者から!>
 ある日、ある闖入者が生活の一部に入り込んでくることによって生活が一変してしまうことはよくあるが、近時の邦画のうち①園子温監督の『冷たい熱帯魚』(10年)(『シネマルーム26』172頁参照)、②深田晃司監督の『歓待』(10年)(『シネマルーム27』160頁参照)、③深田晃司監督の『淵に立つ』(16年)(『シネマルーム38』79頁参照)は、そんな「闖入者」をテーマにした怪作だった。
 ①は小さな熱帯魚店を営む善良で小市民的な家族の中に、でんでん演じる大型熱帯魚店を経営する男が親切顔で闖入してくることによって生まれる恐ろしいドラマだった。②は東京の下町で小さな印刷業を営んでいる家庭の中に最初に闖入してきた古舘寛治演じる男が、更にブラジル人女性の妻やその友人である何十人もの外国人を闖入させてくる大変なドラマだった。両者とも最初は一見人懐っこい顔で闖入してくるものの、いざそこに自分の居場所を見つけ、それをキープすると、たちまち君子豹変(?)し、何ともすさまじい「闖入者二態」を演じていた。また③も古舘寛治演じる男が営む家族経営の町工場に、夫の旧友で殺人の前科を持つ浅野忠信演じる男が闖入してくることによって、一人娘が死んでしまったうえ、あっと驚く結末へと進んでいった。
 それらと同じように、本作では伯爵夫人でありながら、美青年のコンラッド・ヒューベル(ヘルムート・バーガー)を若い男妾として公然と囲い、「大阪のおばちゃん」以上の厚かましさと口やかましさを持った中年女性ビアンカ・ブルモンティ(シルヴァーナ・マンガーノ)が老教授のお屋敷の2階を賃借りしたいと申し入れ、強引にコンラッドを2階に住みつかせて「闖入者」とするところから、奇妙なそして老教授にとって何とも迷惑千万なドラマが本格的にスタートしていくことに・・・。

<故淀川長治氏が絶賛!>
 「さよなら、さよなら、さよなら」のフレーズで有名な故淀川長治氏の映画に対する造詣の深さは特筆ものだが、その彼は「私とヴィスコンティ」というエッセイ(『ヴィスコンティとその芸術』1981年、パルコ出版)で本作を絶賛している。2月18日に観た『揺れる大地 デジタル修復版』(48年)がリアリズムを徹底的に追及したためシチリアでの6カ月にわたる屋外での過酷なドキュメンタリー風の撮影になったのに対し、本作は全編が老教授のお屋敷内での撮影になっている。今でこそ照明器具の発達によって部屋の中は明るく照明されているが、当時の電灯はそれほど明るいものではなかったから、老教授の広大なお屋敷の中はどちらかと言うと薄暗く、ろうそくの灯も使われている。したがって、その明暗や濃淡をいかにカメラで撮影するかは映画製作の重要な要素だし、家や家具類そのものがその撮影に耐えるホンモノであることが大前提だ。今ではそういうものは美術班がそれなりにうまく処理しているが、貴族趣味のヴィスコンティ監督はそういうものも徹底させたから、本作のそれらはすべてホンモノ。そんなことも踏まえて淀川長治氏は次のように表現しているのでそれをそのまま引用しておきたい。

  ヴィスコンティと聞くだけでうろたえる私は「家族の肖像」(75)を四度たてつづけに見たのだが、まだ見たく、まだ見ねばならぬと思う。ヴィスコンティのクラシックごのみの中で、この鮮やかなモダン美術。九官鳥の鳴き声までが計算されて、この階上の地獄、階下の天国が、たまちにして逆に変わるこの趣向。初老主人の別室の桃色の秘密部屋。一枚ずつ老主人の本体があばかれ、はぎめくられ、カベのしみ、天井のカベの落下、この責め苦がいよいよひろがってゆく苦行苦況。「ベニスに死す」でアシェンバッハがタジオの戯れ弾きのピアノ曲『エリーゼのために』を盗み聞いたその日から敗北の自虐に落ちたごとく、この老主人は青年のため朝食を運ぶ。青年の死がこの老主人の命を奪う。これほど人を愛し得ればと胸を打つ。


<テーマは「家族」!ヴィスコンティvs山田洋次>
 山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズは48作まで続いた。これはフーテンの寅さんの個性が突出しているが、あくまでそのテーマは葛飾柴又に住むさくらやおじちゃん「家族」。その山田洋次監督が『男はつらいよ』と『東京家族』(13年)(『シネマルーム30』147頁参照)を合体させて、「家族」を真正面から山田流喜劇として描いたのが『家族はつらいよ』(16年)(『シネマルーム37』131頁参照)だった。近々そのパート2も公開されるので、いよいよこれもシリーズ化されそうだ。
 山田洋次監督は1960年代のハナ肇を起用した『馬鹿』シリーズ(『馬鹿まるだし』(64年)『いいかげん馬鹿』(64年)『馬鹿が戦車でやって来る』(64年))をはじめとして、若い頃から一貫して「庶民派」だったから、彼がスクリーン上に描く「家族」は多くの日本の庶民の「好み」に合致していた。しかし、ヴィスコンティ監督は生まれながらの貴族階級に属する人物だから、いくらイタリア共産党の活動に協力したとしても、所詮貴族趣味は抜けないはず。そのことが『揺れる大地』 (48年)を例外として、『山猫』(63年)や『ベニスに死す』(71年)では顕著だった。そして、それは本作も同じで、バート・ランカスター演じる老教授はひょっとしてヴィスコンティ監督の自身の投影・・・?そんな錯覚すら覚えるほどだ。
 したがって、ヴィスコンティ監督が本作のテーマとして描く「家族」は、山田洋次監督が『家族はつらいよ』シリーズで描く「家族」とは全く異質。広大なお屋敷に一人で住む老教授の家族は、「家族の肖像」という絵画の中にみる家族だけだ。ところが、ビアンカ伯爵夫人のいかにも「大阪のおばちゃん」的なやり口によって、学識豊かで美青年のコンラッドが闖入者として老教授の生活の中に入り込んでくると、老教授の心の中にはコンラッドに対して次第に家族(父子)のような、あるいはひょっとして恋人(男色?)のような感情が生まれてくることに・・・。

<闖入者の言い分は?老教授の対応は?>
 「空いているお屋敷の2階を1年間だけ貸してくれ。賃料はいくらでも払うから」。ビアンカ伯爵夫人からそう話を持ち込まれても、老教授がそれに一切応じる気持ちがなかったことは当初から明らかだ。自分が信頼している弁護士から勧められても一貫して拒否していたのだから、冒頭のそんな「商談」が現実化するとは誰も思わなかったが、事態は老教授の想定をはるかに越えてスピーディーに急展開!ある日、急に2階から水漏れがしたり、壁が崩れたりしたのだから、家政婦のエルミニア(エルヴィラ・コルテーゼ)や老教授がびっくりするのは当然だ。ところが文句を言うために老教授が2階の部屋に入ってみると、そこにはコンラッドが一人で住んでいたうえ、逆にコンラッドから賃借権はおろか将来の所有権まで主張されたから、アレレ・・・。
 この争いは弁護士の目から見れば最終的には老教授の勝ちだが、ビアンカ伯爵夫人の言葉を信じて入居してきたコンラッドの言い分にも一理ある。したがって裁判になれば結構ややこしそうだ。もっとも、本作はそんなくだらない法廷闘争を描く映画ではなく、あくまで「家族」をテーマにした映画だから、以降は老教授と闖入者コンラッドとの人間関係を核としたストーリーになっていくので、それをじっくり味わいたい。なお、当初の闖入者はコンラッドだけだったが、中盤の展開ではビアンカ伯爵夫人の娘のリエッタ・ブルモンティ(クラウディア・マルサーニ)やその恋人であるステファノ(ステファノ・パトリージ)も闖入者となって、老教授との間にさまざまな人間関係が生まれてくるので、それにも注目!
 闖入者に対する老教授の対応は私の目にはあまりにも優しすぎ(生ぬるすぎ?)に見えるが、それは老教授の性格や品の良さからして仕方なし?しかし、老教授のこんな対応では、闖入者たちはますます増長していくばかりでは・・・?

<コンラッドとの関係に見る、老教授のデカダンスは?>
 『ベニスに死す』のタッジオはたしかに美少年。そして、本作のコンラッドもたしかに美青年だ。ちなみに、『山猫』でバート・ランカスター扮するドン・ファブリチオ・サリナ公爵がかわいがる、アラン・ドロン扮するタンクレディもかっこいい青年だった。また、『ベニスに死す』のタッジオは美しいだけだった(?)が、本作のコンラッドは美術(絵画)やモーツァルト(音楽)の造詣が深いから、そのことに老教授はビックリ。さらに、ビアンカ伯爵夫人の夫は右翼の大物だが、コンラッドは進歩的思想の持ち主で、警察に追われたこともあるそうだから、政治的素養も十分?そのため本作中盤では、その政治的立場の違いからコンラッドが右翼青年に襲われたり、リエッタやステファノたちと一緒にミュンヘンに出かけた時は、かつての逮捕歴(?)のためコンラッドだけ国境で不審訊問を受けたりというハプニングが発生する。しかし、なぜかそのたびに老教授はコンラッドの窮地を助けてやることに・・・。
 そんな中で、淀川長治氏をして「本作を4度観てもまた観たくなる」と言わしめた本作の肝(キモ)は、老教授がコンラッドに対して父子のような、あるいは同性愛のような感情で、魅かれていくことだ。一生このお屋敷で独り住まいと割り切っていた老教授は「家族の肖像」の絵の中にだけ家族を見い出していたが、コンラッドという魅力的な美青年の中に「家族」を期待するようになると、その結末は・・・?ちなみに、デカダンスという言葉は「虚無的・退廃的な傾向や生活態度」と訳されており、ヴィスコンティ監督の映画はデカダンスに満ち溢れているのが大きな特徴だが、あなたは本作のコンラッドとの関係に見る老教授のデカダンスをどう受けとめる?
                               2017(平成29)年3月23日記