洋17-21

「未来よ こんにちは」
    

             2017(平成29)年2月7日鑑賞<ビジュアルアーツ大阪試写室>

監督・脚本:ミア・ハンセン=ラブ
共同脚本:サラ・ル・ピカール、ソラル・フォルト
ナタリー(高校の哲学教師)/イザベル・ユペール
ハインツ(ナタリーの夫、哲学教師)/アンドレ・マルコン
ファビアン(ナタリーの教え子)/ロマン・コリンカ
イヴェット(ナタリーの母)/エディット・スコブ
2016年・フランス、ドイツ映画・102分
配給/クレストインターナショナル

<フランスの、この若き女性監督に注目!>
 日本でも、『ゆれる』(06年)(『シネマルーム14』88頁参照)、『夢売るふたり』(12年)(『シネマルーム29』61頁参照)、『永い言い訳』(16年)(『シネマルーム38』94頁参照)等で有名な西川美和監督は「完全オリジナル脚本」にこだわり、自分の監督作品の脚本は必ず自分自身で書いているが、映画に出演する側の「女優」から、映画をつくる側の「監督」に見事転身した1981年生まれのフランス人女性ミア・ハンセン=ラブも、自分の映画の脚本は必ず自分で書くことにこだわっているそうだ。
 私は彼女の第2作目作品『あの夏の子供たち』(09年)(『シネマルーム24』未掲載)しか観ていないが、本作は見事に2016年の第66回ベルリン国際映画祭で銀熊(監督)賞を受賞!エリック・ロメール監督を敬愛しているというミア・ハンセン=ラブは、若くして今や名実ともにフランスを代表する女性監督に!

<両親とも哲学者!そんな環境から本作の脚本が!>
 ミア・ハンセン=ラブ監督の両親は2人とも哲学の先生で、父親はカントからの流れを汲むドイツ観念論派の哲学者、母親はルソー派の哲学者だったそうだ。そんな影響もあって(?)彼女がフランスを代表する女優イザベル・ユペールを想定して書いたという本作の脚本での、イザベル・ユペール演ずるヒロイン、ナタリーの仕事は高校の哲学教師。そして、ナタリーの夫のハインツ(アンドレ・マルコン)も哲学教師。ナタリーは高校の哲学の授業でジャン=ジャック・ルソーの思想を教えており、ハインツはカントの信奉者という設定だ。
 本作(の脚本)が面白いのは、さらに、ナタリーが理想とする「自分の頭で考えることのできる」若者に成長した教え子のファビアン(ロマン・コリンカ)も、ナタリーの監修で哲学書を出しているほどの哲学者に育ったということ。したがって本作では、ナタリーの高校での授業風景はもちろん、全編にわたってさまざまな「哲学色」が強く出てくるからそれに注目!そのうえで、ナタリーとハインツ、そしてファビアンの哲学的な考え方の異同をしっかり確認したい。もっとも、今は哲学の教師をやめ、執筆をしながらアナーキストの仲間たちと共に怪しげな活動を展開している(?)ファビアンの姿を見ると哲学とは無関係のように思えるが、ナタリーの哲学は「多様性を認めるところが出発点」のようだから、なるほど、それもあり・・・。

<50代となったナタリーの未来は?>
 本作冒頭、2人の子供を連れてナタリーとハインツがブルターニュへ家族旅行に出かけているシークエンスを見ていると、ナタリーとハインツは仲の良い夫婦であるとともに、同じ哲学者として同志のような関係にあることが見て取れる。それから数年後、子供たちは独立し、ナタリーはパリ市内に一人で暮らす母イヴェット(エディット・スコブ)の介護に追われていたが、それはナタリーが50代になった今、ある意味仕方のないところだろう。
 折しも、校内は「若者の失業を増やす改悪」反対のストに揺れていたが、かつての「五月革命」の際に学生運動にのめり込んだナタリーは、今はスト中の生徒からその姿勢を揶揄されようとも政治的な言動は避け、毅然として授業を続けていたからその面では安泰。したがって、ナタリーのこれからの「未来」は60代で定年を迎えたその後は、70代、80代に向けて自然にやってくる「老い」を迎えていけばいいだけだ。私は沖縄出身の女性デュオKiroroが「ほら 足元を見てごらん これがあなたの歩む道。ほら 前を見てごらん あれがあなたの未来」と歌った『未来へ』という曲が大好きだが、それはあくまで限りない可能性を持った若者が未来について歌った曲。それに対して、50代になったナタリーのこれからの未来は静かな老いを迎えるだけ・・・。
 普通はそうだが、原題を『未来』、邦題を『未来よ こんにちは』とした本作では、ナタリーは真面目な夫、ハインツから結婚25年目にして「好きな人ができた」と唐突に告白され、家を出ていかれるという思いもよらない現実に直面することになる。すると、夫と共に自然に老いを迎えるはずであったナタリーの未来は、これから一体どうなっていくの・・・?

<老いと死と新たな生命>
 本作のプレスシートには、上野千鶴子氏(社会学者)の「いずれかならずくるもの・・・老い」と題するエッセイがある。今年1月26日に68歳の誕生日を迎えた私も、一昨年9月の直腸ガンの手術、昨年11月の胃ガンの手術という経験を経る中で「老い」を実感せざるをえなくなったが、1981年生まれの若き女性監督ミア・ハンセン=ラブが本作で描くテーマは、まさにイザベル・ユペール演じるナタリーのそれだ。
 同じ女性目線だから、上野氏の文章は「すっかり堂々たるオバサン体型になってしまったカトリーヌ・ドヌーブと比べれば、ユペールはスリムな体型を保っているが、衰えは隠せない。」と辛辣。しかし、同時に「それがどうした。盛りを過ぎた女の悲哀と断念、成熟とがたしかにそこにある。」と堂々としたものだ。さらに、同氏のエッセイにおける本作の評価(?)は、「物語は観客の期待を裏切って、夫との劇的な和解もなく、かわいがった教え子とのラブアフェアもなく、事件はな~んにも起こらず、孫が産まれて『お祖母ちゃん』になる。イケメン哲学徒の教え子は、すでに伴侶を得て自分の人生を歩み出している。『出会いは?』と元教師に尋ねるが、今さら人生をやりなおすつもりもない。」とそっけない。その上で「いずれかならずくるもの・・・老いと死とそして新たな生命。人生がそうやってまわっていく。感動的でもなく、英雄的でもないひとりのおんなの人生・・・だが、ひとりの孤独と充実を内に、初老の女が草原に立ち尽くす風景は、心に刻まれる。それをわずか35歳の女性監督、ミア・ハンセン=ラブが描きぬいた。」とまとめる能力はさすがだ。
 イザベル・ユペールは1953年生まれの女優だから1949年生まれの私より若いし、1945年生まれの吉永小百合よりずっと若い。その点についても、上野氏は「映画は若者だけのものではない。映画が成熟したから、成熟した俳優の出番がある。老女俳優が輩出して、日本でも樹木希林のような快優が生まれた。八千草薫の老い姿もうつくしい。原節子のように、美貌の記憶を残したまま銀幕から去るだけが芸ではない。」としたうえで、「表現者には、自分の老いや衰えをも表現しつづける責任があると思う。これから先、吉永小百合や小泉今日子など、熟年の女優が舞台やスクリーンの上で、どんな老いを見せてくれるだろうか、たのしみだ。」と結んでいるが、このまとめには私も全く同感だ。
 本作にいう「死」とはナタリーの母親、イヴェットの死、「新たな生命」とはナタリーの娘に孫が生まれたことを指している。本作のストーリーの中ではそれが描かれていくが、少しずつ老いを自覚しながらそんな出来事に対するナタリーの「対応力」をしっかり確認したい。少子高齢化が進む日本では年寄りの未来はあまり明るくないが、本作のヒロインはまさに「未来よ こんにちは」!

<ナタリーのファッションは?さすがフランス!>
 私はファッションのことはあまりわからないが、本作では①バカンス先のブルターニュでのファッション、②授業中のファッション、③フレンチ・アルプス近くのヴェルコール山の中でファビアンを含むアナーキストたちと共同生活を営む際のファッション、④パリの市内や公園でのファッション等々、私でもナタリーのファッションの多様さに気づかされる。本作ではほぼ全編にわたってナタリーが出ずっぱりだから、ナタリーのファッションの印象が否が応でも強くなるわけだ。
 もちろん、それは女優イザベル・ユペールが強く意識していること。プレスシートの中にあるインタビューの中で、イザベル・ユペールは「まさにコスチュームは気を使って考えました。ミアはとても若い監督なので、すべてを自分で考え、すべてを手がけたい人なんです。でもこの映画の中で、衣装がどのように変化するかが重要だと思いました。たとえば、ナタリーは哲学教師なので、先生らしい服装というのも必要ですし、その上で色や形が私に似合う必要があります。衣装の担当者と一緒に、私自身も細かいところまで検討し、繊細かつ明確なデザインのものを揃えました。」と語っている。
 私にはファッションの細かいことはわからないし、授業中のナタリーのファッションはかなり大胆で派手と思ってしまうが、フランスではこの程度は普通・・・?『太陽のめざめ』(15年)(『シネマルーム38』未掲載)で観た、オバサン体型になってしまったカトリーヌ・ドヌーブのファッションにあまり興味が沸かなかったのは仕方ないが、スリムな体型を保っている女優イザベル・ユペールが本作で見せる数々のファッションにはぜひ注目したい。
                               2017(平成29)年2月9日記