洋17-20 (ショートコメント)

「エゴン・シーレ 死と乙女」
    

                     2017(平成29)年2月5日鑑賞<テアトル梅田>

監督・脚本:ディーター・ベルナー
脚本:ヒルデ・ベルガー
エゴン・シーレ/ノア・サーベトラ
ゲルティ(シーレの妹)/マレシ・リーグナー
ヴァリ(赤毛のモデル)/ファレリエ・ペヒナー
モア(ストリップ劇場の踊り子、モデル)/ラリッサ・アイミー・ブレイドバッハ
グスタフ・クリムト(ウィーン画壇の巨匠)/コーネリウス・オボンバ
エディット(シーレの妻)/マリー・ユンク
2016年・オーストリア、ルクセンブルク映画・109分
配給/アルバトロス・フィルム

◆「伝記もの」は特別面白いものではないが、その一本の映画を観ただけでそれまで全然知らなかった各界の著名人を知ることができるので効率がいいし、それなりに興味深い。最近やたら画家やミュージシャンの伝記ものが多いように感じるが、本作はそのうちの一本。20世紀初頭に活躍し、28歳の若さで早逝したドイツ人の異端の天才画家エゴン・シーレの半生を描いたのが本作だ。
 冒頭、若いヌードモデルを描いている画家エゴン・シーレ(ノア・サーベトラ)の姿が登場するが、実はこのモデルはシーレの実の妹ゲルティ(マレシ・リーグナー)らしい。しかし、じゃれ合いながら「お仕事」をしている2人の何とも言えないいい雰囲気を見ているとひょっとして・・・。

◆去る1月21日に74歳でなくなった俳優・松方弘樹は、最初の妻であるモデルの目黒夏子との間に3人、2度目の妻である女優の仁科明子との間に2人、愛人(?)である歌手の千葉マリアとの間に1人、合計6人の子供をもうけたが、最後は内縁の妻・山本万里子と数人の友人だけに見守られて亡くなったらしい。芸人や役者そして芸術家には女がつきものだが、モデルと過ごす時間が長いヌード画家は特にその傾向が強い。ちなみに、ピカソも生涯で9人の女性をとっかえひっかえしたそうだが、シーレはスペイン風邪(インフルエンザ)のため28歳で死亡するまでに次々と若いモデルと浮名を流し、「幼児性愛者」と噂されたらしい。
 本作は、妻のエディット(マリー・ユンク)と共に病床に伏しているシーレを妹のゲルティたちが訪れるシーンから始まるが、メインストーリーはそこから回想されていくシーレの女遍歴の物語。シーレが友人たちと「新芸術集団」を立ち上げたのは第一次世界大戦が始まる1910年。そこでの意気揚々とする姿は勇ましいが、所詮は遊びたい盛り、血気の盛りをぶちあげているだけ・・・?

◆実の妹のゲルティに続いてシーレのヌードモデルとして登場してくるのは、①ストリップ劇場の踊り子モア(ラリッサ・アイミー・ブレイドバッハ)、②先輩の大画家グスタフ・クリムト(コーネリウス・オボンバ)から譲り受けた(?)赤毛のモデルのヴァリ(ファレリエ・ペヒナー)。2人とも第一次世界大戦中の時代にしては超個性的だから、彼女たちとシーレがお互いに気に入ったのはなるほど、なるほど・・・。
 もっとも、モアは当初は結婚する気など全然ないと言い、その旨をシーレの手帳に文章として書いたほどだが、後には態度を急変させるのでその豹変ぶりに注目!他方、看護婦としてドイツ軍に従軍したヴァリには、悲劇的な結末が待っているのでそれにも注目!

◆俳優・松方弘樹は二度の離婚体験の後は、死ぬまで30歳も年下の山本万里子と一緒に暮らしたが、なぜか彼女とは籍を入れず内縁のままだったらしい。それは、百田尚樹著『殉愛』(幻冬舎刊、14年)で詳しく書かれているように、故やしきたかじんが、その最期を看取ったこれまたたかじんよりずっと若い家鋪(やしき)さくらを入籍しなかったのと同じだ。きっとそこには2人とも深い深いワケがあったのだろう。
 ところがシーレの場合は、「ヌードモデルとの遊びと結婚は全く別モノ」と割り切っていたかのように、良家のお嬢さんであるエディットとスンナリ結婚したからこれは意外。もっとも、結婚してもいつもどこかで女と一緒にいるシーレの生活ぶりは変わらなかったようだからそれはそれですごい。さらにスクリーンを観ていると、軍隊に召集されてからもそれが続いたようだから、「その方面」へのシーレの執念と体力はいかに若いとはいえ驚異的・・・?

◆私は、シーレが描いた絵の価値についてはサッパリわからないが、1月27日付読売新聞夕刊の新聞紙評を読むと、京都国立近代美術館主任研究員・池田祐子氏は、「シーレは『(成長の)過渡期にある、不均衡な体に美を見いだした。汚されていないものに対する、あこがれがあったのでしょう』」と解説している。そして、シーレの最高傑作が「死と乙女」で、彼が死の間際まで描きためたデッサンは数千点あるらしい。
 映画の中ではその時々のモデルとのやりとりの中で、彼女らをデッサンするさまが描かれていくが、池田氏の指摘によると、「映画のシーレは『ひたすら線を探求し、色を塗る場面がほとんどない』」らしい。つまり「構図と線による装飾を極めようとした」そうだ。
 私にはそこまではわからないが、絵を志す人が本作を鑑賞する場合は、そこらあたりまでしっかり理解する必要があるだろう。
                                2017(平成29)年2月7日記