洋17-14

「沈黙 -サイレンス-」
    

               2017(平成29)年1月28日鑑賞<TOHOシネマズ西宮OS>

監督・脚本:マーティン・スコセッシ
脚本:ジェイ・コックス
原作:遠藤周作『沈黙』(新潮文庫刊)
セヴァスチャン・ロドリゴ神父(岡田三右衛門)(フェレイラ神父の弟子)/アンドリュー・ガーフィールド
クリストヴァン・フェレイラ神父(沢野忠庵)(日本で布教していたイエズス会の宣教師)/リーアム・ニーソン
フランシス・ガルペ神父(フェレイラ神父の弟子)/アダム・ドライヴァー
通辞(井上筑後守に仕えていた通訳)/浅野忠信
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父/キアラン・ハインズ
キチジロー/窪塚洋介
井上筑後守/イッセー尾形
モキチ/塚本晋也
モニカ/小松菜奈
ジュアン/加瀬亮
イチゾウ/笈田ヨシ
2016年・アメリカ映画・161分
配給/KADOKAWA

<ノーベル文学賞は、大江健三郎より遠藤周作!>
 中国人作家・莫言氏と私の「対談」が2011年7月に私の事務所で実現したが、これはすべて神戸国際大学教授である毛丹青氏の紹介と通訳によるものだった。その毛丹青氏が大江の通訳として大江を莫言に引き合わせた時に、大江は「10年後に莫言がノーベル文学賞を受賞する」と予言していたそうだからすごい。愛媛県出身の大江健三郎は私にも身近な存在だが、私の大学時代にヒットした『万延元年のフットボール』(67年)等の彼の作品はともかく、政治的立場を比較的鮮明にしている彼の生き方を私はあまり好きではない。それに比べて、遠藤周作の『海と毒薬』(57年)はすごい問題提起作だったし、『沈黙』もとにかくすごい小説だった。高校時代の国語教師もべた褒めしていたことをよく覚えている。
 他方、1942年生まれのマーティン・スコセッシ監督といえば1976年にカンヌ国際映画祭パルム・ドールを獲得した『タクシードライバー』(76年)をはじめとして、『ディパーテッド』(06年)(『シネマルーム14』57頁参照)、『ヒューゴの不思議な発明』(11年)(『シネマルーム28』15頁参照)、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(13年)(『シネマルーム32』38頁参照)等で有名な巨匠。本作のパンフレットの「イントロダクション」によれば、そのスコセッシ監督が28年間ずっと温め続け、今般やっと映画化したのが、遠藤周作の『沈黙』だ。戦後日本文学の最高峰とも称された『沈黙』は世界中で20カ国語に翻訳されているが、スコセッシは人間としてのイエス・キリストを新解釈で描いた問題作『最後の誘惑』(88年)を発表した1988年にこの原作と運命的に出会ったらしい。イントロには「少年時代はカトリックの司祭になることを思い描き、宗教的葛藤をしばしば作品の主題に据える彼にとって、一つの集大成になることは間違いない。」と書かれている。
 日本ではノーベル文学賞作家である大江健三郎の評価は当然高いが、私はノーベル文学賞は大江健三郎より遠藤周作であると思っている。そんな本作は何が何でもこりゃ必見!

<オーディションで窪塚洋介、塚本晋也、浅野忠信らが!>
 マーティン・スコセッシ監督の本作には窪塚洋介、塚本晋也、浅野忠信らの日本人俳優が出演しているが、本作はレッキとしたアメリカ映画。それは渡辺謙、二宮和也、加瀬亮らが出演したクリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』(06年)(『シネマルーム12』21頁参照)や、渡辺謙らが出演したエドワード・ズウィック監督の『ラスト・サムライ』(03年)(『シネマルーム3』137頁参照)もアメリカ映画だったのと同じだ。
 本作は『キネマ旬報』2月上旬号で、14頁から39頁にわたって「スコセッシ、映画の神に問う!『沈黙-サイレンス-』」と題する特集が組まれており、そこで窪塚洋介、塚本晋也、浅野忠信という3人の日本人俳優が本作への思いを語っている。そこで面白いのは、3人ともオーディションを受けて本作に出演したということだが、さらい面白いのはキチジロー役で一度オーディションを落ちた浅野忠信が再度通辞役で起用されているということだ。『コーラスライン』(85年)はオーディション風景をテーマとしたすばらしいミュージカル映画だったが、本作のオーディションにもさまざまな面白い物語があったのだろう。
 小説でも本作でも、主人公となる宣教師のセヴァスチャン・ロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)らをマカオから長崎まで手引きした後、何度かロドリゴを裏切りながらも最後まで離れないことで、ロドリゴにある“気づき”をもたらす役割のキチジローが本作のストーリーを引っ張るキーパーソンになるから、まずキチジロー役の窪塚洋介に注目!続いて、モキチ役の塚本晋也と後半から登場する通辞役の浅野忠信もすごい演技を見せるのでこの2人にも注目!さらに、『キネマ旬報』には登場しないものの、奉行役のイッセー尾形も人をくったようでいながら、何とも知的な井上筑後守役を見事に演じているのでそれにも注目!

<2人の若き神父はなぜ日本へ?>
 最初のキリスト教(イエズス会)の神父であるポルトガル人のフランシスコ・ザビエルが日本に上陸し、キリスト教を伝えたのが1549年。「関ヶ原の戦い」が1600年。豊臣秀吉が「禁教令(バテレン追放令)」を出したのが1587年、江戸幕府が「禁教令」を出したのが1612~13年。そして「島原の乱」が1637~38年だ。本作を理解するについては、最低限この程度の歴史(年表)を押さえておく必要がある。私は島原には行ったことがないので、キリシタン弾圧のむごさや生々しさは見聞していないが、2007年1月の萩・津和野旅行ではじめて津和野のカトリック聖堂の敷地内にある「殉教切支丹」の展示室を見学し、キリシタン弾圧の生々しさを少しだけ見聞した。
 本作冒頭は、自分の師で先に日本に派遣されていたクリストヴァン・フェレイラ神父(リーアム・ニーソン)が棄教したとの手紙を読んで驚き、自分たちが最後の神父になるかもしれないと覚悟の上で、日本に行くことを決意するロドリゴ神父とフランシス・ガルペ神父(アダム・ドライヴァー)2人の「心意気」が描かれる。NHK大河ドラマに何度も登場しているように、織田信長も豊臣秀吉も新しいものや珍しいもの大好き人間だったから、当初はキリスト教を優遇していたが、豊臣秀吉が1587年に「バテレン追放令」を出したところから時代は激変した。世界は今、民主党で理想主義的なオバマから共和党で現実主義的なトランプに大統領が変わったことによる政治(外交、軍事)経済面での激変を味わっているが、九州地方に多かった当時のキリシタンたちや神父たちにとって、豊臣秀吉のそんな突然の方針転換はたまったものではない。
 自分たちが敬愛していたあのフェレイラ神父が棄教?そんなバカな!そんなことはありえない!何が何でも自分の目で確かめなければ!そして、神父が誰一人いなくなった日本で何が何でも自分たちが神父の役割を果たさなければ・・・。本作は冒頭からそんなスリリングな「心理戦」が描かれる中、2人の若き神父の決意の程が浮かび上がってくるが・・・。

<踏絵の効用は?拷問の効用は?>
 私はキリスト教信者ではないが、もし私が信者だったら、踏絵を迫られた場合「嘘も方便」とばかりに、内心で神様に「ごめんネ」と言ってから踏絵を踏むだろう。それが、小説を読んだ高校生の時も、本作を観た68歳の今も、私の踏絵に対する考え方だ。しかし、本作前半のストーリーを見ていると、ロドリゴ神父を招き入れて喜んでいたイチゾウ(笈田ヨシ)もモニカ(小松菜奈)もジュアン(加瀬亮)も踏絵を踏むことを絶対に拒否。何やかやと弁明しながら踏絵を踏むのは、キチジロー(窪塚洋介)ただ一人だ。
 そこで興味深いのは、そんな状況をつぶさに見聞したロドリゴ神父はこの時点で既に「踏絵を踏んでも神は許して下さる」と考えていること。一緒にやってきたガルペ神父は考え方が違うようだが、さてロドリゴ神父のこの考え方は正しいの?それとも既にまちがっているの?私が思うに、こんな風にある意味で合理的かつ柔軟な考え方(?)をしていたために、ロドリゴ神父は本作後半では踏絵を踏み、「転んで」しまうことになったのでは・・・?
 本作はマーティン・スコセッシ監督の名作中の名作と言える出来だが、全編を通じて拷問シーンが多いからとにかくしんどい。本作のクライマックスはいうまでもなく、そのタイトル通り「なぜ神は我々にこんなに苦しい試練を与えながら、沈黙したままなのか?」という究極の論点の提示になるが、前半では拷問のクライマックス(?)として、十字架で磔にされた塚本晋也演じるモキチが打ち寄せる波の中でもがき苦しむ姿が登場するので、それに注目!塚本晋也は『A SNAKE OF JUNE 六月の蛇』(02年)(『シネマルーム3』359頁参照)や『鉄男 THE BULLET MAN』(09年)(『シネマルーム25』179頁参照)ですばらしい演出を見せた映画監督だが、『野火』(14年)(『シネマルーム36』22頁参照)で見せた俳優としてのすばらしい演技に続いて、本作でも見せるすばらしい演技に注目!

<棄教を迫る難しい論争を、2人とも英語で立派に!>
 本作では、一貫してスクリーン上で見せつけられる日本人キリシタンに対する拷問の姿が痛々しいが、それと同時に、前半では井上筑後守(イッセー尾形)による、後半からは通辞(浅野忠信)によるロドリゴ神父に対して棄教を迫る難しい論争が興味深い。トルストイの『戦争と平和』でもドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』でも主人公たちの「神学論争」が興味深いが、それは家族同士、友人同士の会話だから、言葉が十分通じ合う中での会話だ。
 ところが本作の場合は、日本人vsポルトガル人の会話だからそもそも言葉が十分通じ合わないうえ、根本的な価値観が互いに違っているから、そもそも会話を噛み合わせることが難しい。そのうえ、日本に昔からある仏教の教えの中身やその価値、さらにはすべての自然が神様であるという日本独特の神道の教えをポルトガル人に理解させるのは至難の業だ。もちろん、奉行職という「権力」を笠に着て、棄教しないロドリゴ神父を磔にして殺してしまうのは簡単だが、そんな形で外国人神父を殉教させるのはかえって日本人キリシタンの信仰心を強めることになることを経験上よく知っている井上筑後守は決してそんなことはしない。また、棄教を迫る論争も決して「上から目線」で押し付けの議論を展開するのではなく、あくまでロドリゴ神父の考え方を理解した上で、キリスト教が日本ではなぜ定着しないのかを論理的に諄々と説明していくから立派なものだ。他方、浅野忠信は通辞のキャラを作り上げるについて、通辞もキリシタンだったが弾圧の中で棄教したと解釈し、そんな複雑なキャラの上でロドリゴ神父に棄教を迫る(説得する?)役目を半分楽しみながらやっているそうだからこれもすごい。
 ポルトガル人と日本人との英語劇というだけでも本来少し違和感があるのだから、棄教を迫る論争を英語でやると難しすぎて違和感がより強くなると思うのは当然だが、本作は全然そんなことはなく、思わずその論争に身を乗り出していくことになる。そのため本作では、井上筑後守vsロドリゴ神父、通辞vsロドリゴ神父との間で何度も展開される、そんな英語による棄教を迫る論争に注目!

<遂に2人の神父がご対面!2人の神父の大激論は?>
 本作で、フェレイラ神父役を演じたリーアム・ニーソンは、『96時間』(08年)(『シネマルーム23』未掲載)、『96時間/リベンジ』12年(『シネマルーム30』未掲載)、『96時間/レクイエム』(14年)(『シネマルーム35』132頁参照)という『96時間』3部作で、「妻や娘を守るためなら何だって!」という「男の美学」で悪に立ち向かう男のアクションと知恵を見せつけたフランス人俳優。『シンドラーのリスト』(93年)でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされ注目された1952年生まれの彼を、還暦を前にしてあえてアクション俳優として最初に起用したのは、リュック・ベッソン監督だ。本作で冒頭の問題提起役として登場するフェレイラ神父は、ラストに訪れるクライマックスのロドリゴ神父との「棄教論争」では、日本人・沢野忠庵として棄教したこと(転んだこと)に自信を持ってロドリゴ神父と真正面から論争し、結局その論争に勝利する(?)ことになるのでそれに注目!
 フェレイラ神父からキリスト教を教えられて神父となったのに、その師匠たるフェレイラ神父が自ら志願して赴いた異国の地・日本で棄教したと聞かされたロドリゴ神父が驚くとともに、そんな噂を信じなかったのは当然。したがって、ロドリゴ神父が最後の神父になるかもしれないと知りつつ日本に密航したのは、若き神父としての義務感、任務感以上に師の噂が嘘であることを自分の目で確認したいという強い願いがあったわけだ。ところが長崎で井上筑後守から沢野忠庵と改名したフェレイラ神父に引き会わされると、フェレイラ神父はいとも簡単に棄教した旨を述べるとともに、ロドリゴ神父にも棄教を勧めてきたからアレレ・・・。

<ロドリゴ神父は転ぶの?なぜ神はずっと沈黙を?>
 モキチが磔にされた十字架の上で打ち寄せる波に耐えて3日間も生き続けた拷問のシーンもすごかったが、地面に掘った穴の中にキリシタンを逆さ状態に吊るし、小さな穴をあけたこめかみから(一気に流すとすぐに死んでしまうのでできるだけ苦しみを長引かせるため)少しずつ血を流していく(落としていく)拷問もすごい。そんな拷問を受ける中でフェレイラ神父は棄教したわけだが、彼は棄教は拷問だけのせいではないと語り、日本ではキリスト教は根付かず育たないと語った(弁明した)から、こりゃ井上筑後守と同じ文脈。そんな説明(説得)は、井上筑後守に屈服したフェレイラ神父の自己弁護にすぎない。ロドリゴ神父がそう考えたのは当然だが、さて自分の目の前に逆さづりの拷問を受ける日本人キリシタンたちの姿を見て、そのうめき声をずっと聞かされていると・・・?なぜ神は我々にこんなに苦しい試練を与えながら、沈黙したままなのか?そんなロドリゴ神父の叫びが、本作のクライマックスではすべての観客の耳に聞こえてくるはずだ。しかしてロドリゴ神父の棄教(転び)は実現するの?
 それは小説を読んだ人はみんな知っているし、本作の結論も興味深い。しかし、大切なのは結論ではなくそこに至るプロセスだ。去る1月21日(土)、22日(日)の2日間にわたってテレビ放映された『十戒』(56年)前編後編では、モーゼの前に光り輝く神(?)が姿を見せたし、モーゼに「十戒」を授けるシーンも現実に登場した。また、2016年5月30日に観た『復活(RISEN)』(16年)では、確かにキリストは弟子たちの前だけでなく、ローマ帝国百人隊司令官の前にも登場していた(『シネマルーム38』265頁参照)。しかるに、なぜ1587年以降の徳川幕府による禁教令(バテレン追放令)に苦しむ日本人キリシタンたちの前にイエス・キリストは姿を見せず、沈黙を守ったままだったの?それはずっと謎のままだが、本作を観れば少しはその回答のヒントが見いだせるかも・・・。

<いつか長崎市北西部の外海(そとめ)地区の旅へ!>
 小説『沈黙』の舞台になったのは、正確に言えば長崎市北西部の外海(そとめ)地区。ここは五島列島を望む海に面した地区で、広大な海に背を向けると、すぐ眼前に山が迫ってくるらしい。本作を特集する新聞記事は多いが、2月2日付産経新聞は「遠藤周作『沈黙』の地を歩く」と題する記事を載せ、遠藤周作の一人息子・遠藤龍之介の「映画化にあたって」という寄稿を載せた。
 外海地区をめぐり、国境や時代を超えて心を揺らす遠藤のメッセージに思いをはせたのは、海老沢類記者だ。潜伏キリシタンがこの地方に多かったのは「集落を越えようとすれば一つ山を越えないといけない。長崎のこの地形がキリシタンを守ったという面はあるでしょう」とのことだ。そこには「バスチャン屋敷跡」があり、これは、禁教令が敷かれた「神父不在」の時代、この地の隠れ信徒を導いたとされる伝説の日本人伝道者バスチャン(洗礼名)が身を隠した場所として語り継がれてきたらしい。
 この記事で海老沢記者が発信するメッセージは、「『受け入れる』人間の弱さ、異文化」ということだが、本作の鑑賞を契機として私も一度は長崎市北西部の外海地区の旅へ出かけたいものだ。ちなみに、1月20日に就任したトランプ新大統領が1月27日に署名した「大統領令」の1つである「入国制限令」は世界から猛反発を受けているが、意外にもアメリカ国内では「支持」の方が「不支持」を上回っていることが2月1日のニュースで報道された。しかし私は、「入国制限令は憲法違反」という判断を今後アメリカの裁判所が次々と下すだろうと予想している。さらに移民問題、難民問題は極めて難しい問題だが、入国制限令のような対応は近代法の価値観からはもとより、キリスト教的考え方にも合致しないのではないかと私は考えている。
 他方、同記事上でスコセッシ監督は「弱きをはじかず、抱擁する。否定するのではなく『受け入れる』ことをこの映画では描いている。今一番危険にさらされているのは若い世代です。勝者が歴史をつくり世界を制覇していく―ということしか知らない。それはとても危ないことだと思う」と語っている。さて、敬虔なクリスチャンであるはずのトランプ大統領は、移民政策としての是非はともかく、キリスト教の教えの観点から「入国制限令」の妥当性をどう考えているのだろうか?本作の鑑賞を契機として、そんな直近の大問題もしっかり考えたい。
                                  2016(平成28)年2月3日記