洋16-8

「ヴィオレット-ある作家の肖像-」
    

                   2016(平成28)年1月17日鑑賞<シネ・リーブル梅田>

監督:マルタン・プロヴォ
ヴィオレット・ルデュック(女性作家)/エマニュエル・ドゥヴォス
シモーヌ・ド・ボーヴォワール(作家、哲学者)/サンドリーヌ・キベルラン
ジャック・ゲラン(経営者、手稿の収集家、ヴィオレットの支持者)/オリヴィエ・グルメ
ベルト(ヴィオレットの母)/カトリーヌ・イジェル
ジャン・ジュネ(作家、詩人、劇作家)/ジャック・ボナフェ
モーリス・サックス(ゲイの作家、ヴィオレットの偽装の夫)/オリビエ・ピィ
エルミーヌ(ヴィオレットのかつての恋人)/ナタリー・リシャール
ルネ(レンガ職人)/スタンリー・ヴェベール
2013年・フランス映画・139分
配給/ムヴィオラ

<こんな女流作家の名前と生きザマをインプット!>
 世界文学全集に取り上げられている作家の名前と作品は誰でも知っている。また、「第二の性」で有名なフランス人の女流作家シモーヌ・ド・ボーヴォワール(サンドリーヌ・キベルラン)は世界文学全集には収録されていないかもしれないが、哲学者サルトルとの共同生活や女性解放運動の旗手としてよく知られている。しかし、本作と同時期に観た『フランス組曲』(14年)で、その原作者がナチス占領下のフランスで弾圧を受けたユダヤ人作家イレーヌ・ネミロフスキーだということを全く知らなかったのと同じように、本作のタイトルになっている『ヴィオレット』=ヴィオレット・ルデュック(エマニュエル・ドゥヴォス)が、ボーヴォワールが懸命に支援した女流作家で、女の生と性を赤裸々に描いたセンセーショナルな女流作家であることを私は全く知らなかった。
 『フランス組曲』も、フランスがナチス・ドイツの占領下におかれ、傀儡政権たるヴィシー政権が誕生した1940年6月という時代の物語だったが、本作の時代もほぼそれと同じ。『フランス組曲』は、パリから離れた小さな町に避難してくる市民をドイツ軍の飛行機が襲うシーンから始まったが、本作は偽装結婚をしている男モーリス・サックス(オリビエ・ピィ)と共にパリを逃れ、ノルマンディのアンサン村に疎開しているヴィオレットが闇商売で生計を立てているシーンから始まる。その時代は1942年だ。
 『フランス組曲』を書いたイレーヌ・ネミロフスキーはナチス・ドイツがフランスに侵攻した1940年6月当時ユダヤ人ながら既に有名な女流作家だったが、1942年当時のヴィオレットは単にたくましく生きているだけの女性で、小説の「し」の字も知らなかった。そんな女性がその後なぜ、ボーヴォワールが高く評価し応援を続けた女流小説家にまで成長したの?本作の鑑賞を機に、そんな女流作家の名前と生きザマをしっかりインプット!

<女性の自立と解放を目指すボーヴォワールにも注目!>
 パンフには海老坂武氏の「ヴィオレットをとりまく人々」と題する「背景解説」がある。あえてこれを読まなくても、本作を観れば自然に、ヴィオレットをとりまく同性愛の男として①モーリス、②ジャン・ジュネ(ジャック・ボナフェ)、③ジャック・ゲラン(オリヴィエ・グルメ)の3人がいること、そして何よりも重要な女性としてボーヴォワールがいることがわかる。作家で哲学者であるシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、『第二の性』(49年)を書き、フェミニズム運動で革新をもたらしたことで有名だが、同時に哲学者、作家のジャン=ポール・サルトルとの「契約結婚」でも有名だ。
 本作では、いかにもセンセーショナルなヴィオレットの生きザマと対比するかのように、戦闘的でありながらあくまで理知的で女らしいボーヴォワールの生きザマが描かれるので、それにも注目!そして、ボーヴォワールはヴィオレットにひたすら「書け!」とアドバイスし続け、それが自分の義務であるとまで公言していたが、そのココロは?

<体験を書け!赤裸々に書け!その是非は?
 私の大好きな作家・司馬遼太郎は、歴史もの、人物もの、そして紀行ものが得意。また、トルストイやドストエフスキー等の世界文学全集上の大作家は、壮大な世界観、歴史観、人間観、哲学観を体系的に示しているからすごい。しかし、「一発屋」を含め、多くの作家は自分の体験を基に構想を深め、かつ広げる中で一編の小説を完成させることが多いから、それはいわゆる「私小説」となる。
 『太陽の季節』(56年)でセンセーショナルなデビューを飾った作家・石原慎太郎は、政治家としても大活躍しながら、作家としての執筆意欲も旺盛だった。彼が近時発表した小説・『フォアビート・ノスタルジー』は、一見枯れたイメージのタイトルとは裏腹に、その内容は46歳の主人公の女遍歴とも言えるものになっているからすごい。『失楽園』、『化身』、『愛の流刑地』で有名な渡辺淳一も、いくら歳を重ねても男女の性愛場面の描写は衰えることがないからすごい。しかして、ボーヴォワールがヴィオレットに対して一貫して与えたアドバイスは、前述のように「体験を書け!」「赤裸々に書け!」というものだったが、そのココロは?
 それは、女性が大学に進むのが稀な時代に、パリ大学で哲学を学んだ当時の超エリートだったボーヴォワールの目には、ヴィオレットの①私生児としての誕生、②寄宿学校での初恋や退学処分、③エルミーヌとの同棲、④モーリスとの偽装結婚等々の体験がいかにも刺激的だったためだ。つまり、女性の生き方の確立を目指すボーヴォワールにとっては、「これぞ社会に知らしめるべき自立した女性の生き方!」だと考えられ、それをヴィオレットの文章力をもって世に問うてもらいたいと期待したわけだ。そのため、ボーヴォワールは、①当時のフランスを代表する出版社であったガリマール社を紹介し、②サルトルをはじめとする当時の文壇の名士が集まる老舗カフェのカフェ・ド・フロールを紹介し、さらに③ガリマール社からの送金と称してホントは自分の身銭で定期的な金銭の援助をしたからすごいものだ。
 そんなボーヴォワールの好意と行動について、男にも女にもすぐにホレやすい性分(?)のヴィオレットは、「愛」と勘違いしたようだが、ボーヴォワールはそれを完全に拒否。ボーヴォワールにとって、ヴィオレットへの援助は友情や愛情にもとづくものではなく、完全に社会的な義務だったわけだ。そんなヴィオレットとボーヴォワールの女同士の関係はきわめて珍しいものだから、そのあり方を本作からしっかり勉強したい。

<性体験!中絶!そんなネタへの世間の反応は?>
 子供の頃からエリートとして英才教育を受ける中で、そのまま音楽家や芸術家として大成した人はたくさんいる。しかし他方で、歌手でいえば北島三郎や五木ひろし、そしてやしきたかじんやつんく等々、下積み生活を長く続ける中である日のチャンスを生かして有名になった人も多い。
 ボーヴォワールは前者だが、ヴィオレットは完全に後者。ボーヴォワールから「書くのよ。それが人生を変える。」と言われ続ける中で、少女時代の性体験や中絶の体験等、女でなければ体験できないこと(の苦しみ)を赤裸々に描き、『窒息』(46年)、『飢えた女』(48年)、『破壊』(55年)という小説を完成させてきた。たしかに、そのネタは当時としてはセンセーショナルなものだったが、さてそれに対する世間の反応は?
 本作前半を観ている限り、やはり世間の反応は厳しく冷たいようだ。ボーヴォワールの方は精根傾けて完成させた『第二の性』が大ヒットしたが、同時発売されたヴィオレットの『飢えた女』の売れ行きはサッパリ。続く、寄宿舎での性体験と結婚生活、そして中絶の経験をテーマとした過激な描写が特徴(?)の『破壊』は、ガリマール社からエロティックな描写を削除するよう要請される始末だ。これにはヴィオレットは落ち込み、ボーヴォワールもガリマール社に抗議したが、決定は覆らなかった。そのため、遂にヴィオレットの精神状態がおかしくなり倒れてしまったから、さあ大変。退院後は、ヴィオレットが生涯をかけて敵視してきた(?)母親のベルト(カトリーヌ・イジェル)と同居することになったが、これもヴィオレットにとって良かったの?それとも悪かったの?
 このように、本作中盤はボーヴォワールの叱咤激励に応えて懸命に執筆を続けたにもかかわらず一向に成果に結びつかず、どつぼに落ち込んでいくヴィオレットの姿ばかりが目につくが・・・。

<遂に『私生児』が大ヒット!その後の生きザマは?>
 前述のように、ヴィオレットの男関係は最初の男(?)エルミーヌの他は、モーリス、ジャン、ジャックの3人が3人とも「同性愛者」だから、ヴィオレットにはよほど男を見る目がなかったらしい。本作後半では、そんなヴィオレットが「行きずりの男」ともいうべきレンガ職人の男ルネ(スタンリー・ウェバー)と出会い、恋に落ち(?)、肉体関係をもつ姿が描かれる。
 幼い頃から私生児として生まれてきたことにコンプレックスを持っていたヴィオレットの最大の心の叫びは、母親に対する「なぜこんな私を産んだのよ」というもの。そんな内容をストレートに小説の題材とし、かつ現在の男関係をも冷徹に書き記したのが、1000頁からなる大作『私生児』だ。ボーヴォワールの序文をつけて1964年に出版された『私生児』は大反響を呼び、これにてやっとヴィオレットも一流の女流作家の仲間入りができたが、さてその後の彼女の生きザマは?
 本作のメインは導入部から中盤にかけてのヴィオレットの悪戦苦闘ぶりだから、成功した途端に彼女の生きザマへの興味が薄れてくるのはやむをえない。本作中盤では、精神病院に収容され、電気ショックまで受けさせられるヴィオレットの姿が痛々しく描かれる。他方、そんな中でも、南フランスのプロヴァンス地方への旅の途中、一人で迷い込んだある村の家に入り込むヴィオレットの姿が描かれる。きっと、これは何かの伏線。誰でもそう理解できるが、案の定、本作ラストにはその建物が再登場し、プロヴァンスの陽光の中にやっと自分の居場所を見つけたヴィオレットの姿が印象的に描かれるからそれに注目!
 この村の名前がフォコンだが、『私生児』の成功後、ヴィオレットはこのフォコンにある建物に住んで執筆活動を続け、1972年に65歳で死去したというから、めでたし、めでたし・・・。
                                  2016(平成28)年1月21日記