日16-62

「太陽」
    

                  2016(平成28)年4月30日鑑賞<シネ・リーブル梅田>

監督・脚本:入江悠
原作・脚本:前川知大『太陽』(KADOKAWA刊)
奥寺鉄彦(キュリオの村に生まれ、ノクス社会へ憧れる青年)/神木隆之介
生田結(キュリオの村に生まれた鉄彦の幼馴染)/門脇麦
森繁富士太(ノクスの駐在員、鉄彦の友人)/古川雄輝
生田草一(結の父)/古寛治
佐々木行雄(キュリオの村のリーダー)/綾田俊樹
佐々木拓海/水田航生
金田洋次/高橋和也
曽我玲子(ノクスへ転換した結の母)/森口瑤子
奥寺克哉(鉄彦の叔父)/村上淳
奥寺純子(鉄彦の母)/中村優子
曽我征治(ノクスとなった玲子の再婚相手)/鶴見辰吾
2016年・日本映画・129分
配給/KADOKAWA

<原作と本作が提示する近未来の世界観に注目!>
 SFモノや近未来モノが提示する世界観には多種多様なものがある。小松左京の原作を映画化した『日本沈没』(73年、06年)はいかにも本当に起こりそうな科学性やリアリズムが恐怖感を増幅させていた(『シネマルーム11』50頁参照)し、そのパロディ版としての『日本以外全部沈没』(06年)も面白かった(『シネマルーム11』58頁参照)。また、『アイ・アム・レジェンド』(07年)(『シネマルーム18』369頁参照)はウィルスのために、『ザ・ウォーカー』(10年)(『シネマルーム24』76頁参照)は核のためにほとんど滅亡した人類の姿を描いていた。また、直近の『猿の惑星 新世紀(ライジング)』(14年)(『シネマルーム33』246頁参照)をはじめとする、『猿の惑星』シリーズも、ありえない設定ながら、「ひょっとして・・・」と思わせるところがミソだった。さらに、『バトル・ロワイアル』(00年)は、新世紀教育改革法・通称「BR法」が制定された近未来の日本を、『イキガミ』(08年)は国家繁栄維持法が制定された近未来の日本の姿を興味深く描いていた(『シネマルーム21』149頁参照)。
 しかして、本作の原作である劇団イキウメの前川知大が書いた戯曲『太陽』は、新人類「ノクス(夜に生きる存在)」と、旧人類「キュリオ(骨董的存在)」の世界を描くもの。原因不明のウイルスの拡散によって人類はこの2つに分断されてしまったそうだが、本作ではまず原作と本作が提示する、そんな近未来の世界観に注目!

<いくつかの前提事実の下で、2人の主役が登場!>
 本作の鑑賞については、ノクスとキュリオへの分断という大前提の中、いくつかの重要な前提事実を押さえておく必要がある。その第1はノクスはウイルスの感染を克服し、心身ともに進化したけれど、それと引き換えに太陽の下では生きられない体質になってしまった新人類だが、キュリオは、太陽の下で自由に生きられるものの、ノクスに管理されることで貧困を強いられている旧人類であること。第2はキュリオからノクスへの転換は可能だが、それは20歳までの若者に限られていることだ。そんな前提事実の下、本作導入部では、とある寒村でノクス駐在員がキュリオの男・奥寺克哉(村上淳)によって殺され、克哉は逃走してしまうという事件が描かれる。
 去る5月6日~9日には、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)で36年ぶりに朝鮮労働党の党大会が開催され、そこで新たに「党委員長」に「推戴」された金正恩は、核とミサイル開発を誇示している。しかし、それによって北朝鮮はアメリカのみならず、中国からも経済制裁が強化されることに。それと同じように、克哉が事件を起こしたキュリオの村はノクスからその制裁としての経済封鎖を受けることになったが、より一層貧しくなるとともに、ノクスへの転換のチャンスを奪われてしまったから大変だ。
 しかし、それから10年後の今、経済封鎖が解かれるとともに、転換のチャンスも復活することに。そんな中で、奥寺純子(中村優子)の息子である奥寺鉄彦(神木隆之介)と、曽我玲子(森口瑶子)の一人娘で鉄彦の幼馴染みの生田結(門脇麦)を軸とする物語が展開していくことに・・・。

<転換を希望するのは当然?そんな価値観の是非は?>
 本作の前提によれば、ノクスになれば太陽の下では生きられないものの、心身ともに進化し、豊かな生活が送れるのに対し、キュリオは完全にノクスに管理され、貧しい生活しか送れないのだから、ノクスのほうがいいに決まっている。マルクスは資本家と労働者を二分し、現在の社会は持つ者と持たざる者を二分しているが、そこでの問題は相互の転換可能性がない(弱い)こと。ところが、本作の前提によれば、選抜競争はあるけれども、20歳までに決断すれば、転換手術によって、ノクスからキュリオへの転換は可能なのだから、誰だってその転換を希望するはずだ。そんな価値観を持つ私は、当然本作の鉄彦の考え方を支持するが、他方で、そのことにあまり興味を示さない結のような女の子もいるから面白い。もっとも、これはノクスへの転換のため積極的にゲートの駐在員である森繁富士太(古川雄輝)と友達になり、情報交換をしようと努力を続ける鉄彦と違って,結の方は自分の将来を真剣に考えていないだけでは・・・。
 キュリオからノクスへの転換の応募が始まると、鉄彦が真っ先に応募したのは当然だし、鉄彦のそんな渇望の仕方をみれば、鉄彦が選ばれるのは当然。鉄彦はもちろん、村民たちの多くはそう思っていたが、選ばれたのは何と結だったから、アレレ・・・。自分に内緒で父親の生田章一(古寛治)が応募したことの結果に結が困惑したのは当然だが、そこで自分が選ばれなかったことに納得できず、怒り狂ったのは鉄彦だ。本作を見ていても、なぜ結が選ばれ、鉄彦が選ばれなかったかの選抜基準がサッパリわからないから、そこらあたりの脚本は手抜きとしか言いようがない。それはともかく、鉄彦の怒りはその後どんな方向に?

<舞い戻った克哉が再び事件を!>
 第1作から第49作まで続いた山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズでは、渥美清演じる「フーテンの寅さん」こと車寅次郎が、ひょんなことから生まれ故郷であるおじちゃんが経営する葛飾柴又の団子屋に帰ってくるたびに、恋愛騒動を軸とした家族ぐるみの大騒動が起こるのが常だった。それと同じように、本作では10年ぶりに克哉が戻ってきたことによって、更なる大トラブルの芽になるから、それに注目!
 克哉は10年間もどこに逃亡し、どんな生活していたの?そんな克哉がなぜ今再び生まれ故郷に戻ってきたの?そこらあたりの説明が不十分なところも本作の弱点だが、何事にも乱暴な克哉は、ゲートの門衛をしている森繁の手に手錠をかけてゲートにつないだまま、手錠の鍵を広い原っぱの中に放り投げてしまったから、さあ大変だ。
 ノクスの世界では毎朝太陽が出る前に、「早くノクスの世界に戻りましょう」とアナウンスされていたが、手錠でゲートにつながれたままでは、森繁は太陽の光を浴びて焼け死んでしまうことになる。コトの一部始終をその側で見ていた鉄彦は、森繁の要請を受けて斧で必死に手首ごと森繁をゲートから切り離そうとしたが、さてその後の森繁と克哉の運命や如何・・・?

<本作中盤のドタバタ劇は?その解決策は?>
 他方、10年前に村がノクスから経済封鎖を受ける原因を作った克哉に対して、村のリーダー・佐々木行雄(綾田俊樹)や村人たちが反感を持っていたのは当然。しかるに10年ぶりにシャーシャーと村人の前に顔を出した克哉は、偉そうに村民たちに対して「訓示」をたれる始末だったから、村人たちがそんな克哉をやっつけてしまおうと考えたのも、また当然だ。鉄彦の母親・純子だけは、克哉が更生して帰ってくるのを待っていたようだが、克哉が帰って来た時には入れ替わりにように純子はこの世を去ってしまったから、世の中は、皮肉なものだ。
 本作中盤に貧しいキュリオの村の中で展開される、そんな克哉と森繁そして鉄彦や村民たちのドタバタ劇は、キュリオの村民すべての絶望の中でのもがきや苦しみを象徴しているといわざるをえない。これはいわば、きっと現在も続いているであろう北朝鮮の人民たちのもがき、苦しみと同じようなものだろうが、その怒りの捌け口はどこにもないことは明らかだ。しかして、さてその解決策は・・・?

<ノクスへの転換で何がどう変わるの?>
 門脇麦は、『愛の渦』(14年)(『シネマルーム32』未掲載)で大胆なヌードシーンを披露すると共に、激しい喘ぎ声で勝負した女優だが、その後の成長は著しい。そんな門脇麦が演じる本作前半の生田結は、鉄彦と違って自分の意志を明確に見せない、どっちつかずのキャラだ。したがって、そんな結がノクスへの転換を切望する鉄彦を押しのけて転換者に選ばれたことに私が違和感を覚えたのは前述のとおりだ。
 キュリオからノクスへの転換によって肉体的に何がどう変わるのかは本作の前提として説明されているが、それによって精神的に何がどう変わるのかは何も説明されていない。もっとも、その点は結の母親である曽我玲子が既にノクスに転換した大先輩だし、玲子の再婚相手である曽我征治(鶴見辰吾)はもともとのノクスだから、この2人の姿からある程度うかがうことができる。ノクスへの転換手術の様子も興味深いが、それ以上に興味深いのは、キュリオからノクスに転換した結が薄汚いイモ姉ちゃんから、洗練されたファッションに身を包んだ美少女に変身していること。したがって、それまでは同じキュリオに属する貧しい村民として鉄彦と接していた結が、洗練されたノクスの美少女としてゲートで鉄彦と相見えるシーンは興味深い。さあ、ノクスへの転換で人間の精神面は何がどう変わるのだろうか?

<あなたは誰のどこに、どんな希望を見い出せる?>
 2人の「ご対面」のシーンで、結は「こんなになれるのなら、もっと早くノクスに転換しておけばよかった」と語っていたが、きっとそれは本音だろう。しかし、ノクスへの転換をあれほど切望しながら、合理的な理由もないままそれを果たせなかった鉄彦は、そんな結との「ご対面」をどのように受け止めたのだろうか?そこでは、「今回はムリだったけど、また来年を目指せばいい」などの慰めの言葉が何の説得力もないのは当然だ。
 一強多弱体制下でアベノミクスを推し進めてきた安倍政権下では、格差の広がり、格差の固定を批判する声が続いているが、本作に見るノクスに転換した結とキュリオのままでノクスに転換できない鉄彦の姿を対比していると、その批判もうなずける。もっとも、そう考えると、戯曲として大成功した本作を何としても映画化したいと考えて脚本を書き監督した入江悠の本作の狙いは一体ナニ?そんな疑問も湧いてくる。
 プレスシートにあるインタビューの中で入江監督は、「なかでも鉄彦は、どんなに絶望的な状況でも希望を持っている、大事な役割を担ったキャラクター。神木君本人がもともと持っている前向きさや明るさがこの役には必要で、どうしても彼に演じてほしかった。」と述べている。また、「映画を観た人それぞれが、自分はどういう生活をしたいのか、どこに希望を見出せばいいのか、考えるきっかけになってもらえたらうれしいですね」とも述べている。しかして、さてあなたは本作の誰のどこに、どんな希望を見いだすことができるだろうか?
                                  2016(平成28)年5月10日記