洋16-61 

「孤独のススメ」
    

                  2016(平成28)年4月30日鑑賞<シネ・リーブル梅田>

監督・脚本:ディーデリク・エビンゲ
フレッド(一人暮らしの中年男)/トン・カス
テオ(言葉をもたないホームレスの中年男)/ルネ・ファント・ホフ
カンプス(フレッドの隣人の中年男)/ポーギー・フランセン
牧師/ヘルマート・ウォウデンベルフ
ヨハン(フレッドの息子)/アレックス・クラーセン
サスキア(テオの妻)/アリアネ・スフルーター
2013年・オランダ映画・86分
配給/アルバトロス・フィルム

<説明不足気味だが、なかなかどうして・・・>
 ディーデリク・エビンゲ監督の初長編作品となるオランダ映画で、ロッテルダム国際映画祭の観客賞等多数の賞を受賞した本作は、86分の小品。登場人物も、妻と息子を失い今を孤独に生きている中年男フレッド(トン・カス)と、言葉も過去もすべて失ったホームレスの中年男テオ(ルネ・ファント・ホフ)の2人だけがメインだから、きわめて地味。本作冒頭から導入部にかけて展開される、この2人の出会いから奇妙な同居生活開始までのストーリー展開は、何ごともわかりやすく説明してくれる近時の邦画と違って何の説明もないから、少しわかりにくい。
 そもそも、テオが全く言葉を発しない(しゃべれない)のは、なぜ?当初、テオのペテン師ぶりを怒っていたフレッドは、なぜその後テオを自宅に引き入れたの?さらに、フレッドはテオに対して一夜の宿を与えたうえ、その後の奇妙な同居生活に入ったの?そこらあたりのフレッドの変化がなぜ起きたのかをじっくり理解していくことができるかどうかが、本作のしみじみとした心理的人間ドラマの良さを感じ取れるかどうかのポイントになる。しかし、冒頭から導入部にかけてはテオのあまりの「奇行」ぶりが目立つとともに、当初はその原因が判明しないため、私には少しイライラ感も・・・。ところが、ストーリーの進行につれて、なかなかどうして・・・。

<厳格さや規律を溶かすものは?>
 私が生涯のベスト1に挙げる映画は、『サウンド・オブ・ミュージック』(65年)。同作はジュリー・アンドリュース演じるマリアと7人の子供たちが主役だったが、同時にクリストファー・プラマーが演じたトラップ大佐の厳格な規律としつけを重んじる父親ぶりも興味深かった。したがって、当初は一時的な家庭教師としてやってきた修道女を目指すマリアと、既に婚約者までいるトラップ大佐が恋に落ちることなど想像もできなかったが、ドイツ人の典型のような厳格性と規律の男トラップ大佐の心を溶かしたのはマリアの純真さだった。
 私がここでなぜそんなことを書くのかというと、それは本作でフレッドがテオと打ち溶け心を開いていく姿や、テオがメエメエと鳴く姿が子供に気に入られ、誕生会で演じてくれと頼まれたフレッドがテオと共にある誕生会に出向き楽しそうに童謡を歌っている姿を見ていると、これは『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ大佐と同じだと痛感したためだ。つまり、『サウンド・オブ・ミュージック』で見た自宅のパーティーでトラップ大佐がマリアや子供たちと一緒に歌う姿は実に楽しそうだったが、それは本作に見るフレッドも全く同じなのだ。

<本作は同性愛の映画・・・?>
 もっとも、『サウンド・オブ・ミュージック』に見るトラップ大佐とマリアの結びつきは男女間の愛だったが、本作に見るフレッドとテオの結びつきは一体ナニ?もともと敬虔なクリスチャンであったフレッドは日曜日毎の教会通いを欠かさなかったが、テオとの奇妙な同居生活が始まった後はそれも欠席気味に。牧師(ヘルマート・ウォウデンベルフ)や隣の中年男カンプス(ポーギー・フランセン)はそのことを心配し、以降テオのことを注意深く観察してみると、これはかなりヤバイ感じ・・・。
 そんな中、テオは「フレッドと結婚する」と公言してみたり、ホントにウエディングドレスを着て外出したりしたから、牧師たちはビックリ!フレッドは何か魔物に取りつかれたのでは?そう心配したのもやむをえない。クライマックスに至って、ドレス姿のテオと指輪を交換し、フレッド自らが神父となって誓いの言葉を述べあい、2人だけの「結婚式」を挙げるシーンを見ていると、本作は『リリーのすべて』(15年)をはじめとする、近時はやりの「LGBTQ」の流れに沿った同性愛の映画とも思えてくるが、さて・・・。

<何と、テオにはれっきとした妻が!>
 全くセリフをしゃべらず、メエメエと羊の鳴き声を真似るだけの男テオには、何とれっきとした妻サスキア(アリアネ・スフルーター)がいたことが本作中盤に判明するから、それに注目!テオの案内によってフレッドがテオの家を訪れると、テオの妻サスキアの説明によって、ある日発生した交通事故のためにテオは脳に損傷を受けて記憶喪失になったことが判明。もっとも、テオは一定期間の徘徊生活、放浪生活を終えると、また妻の元に戻って来るらしい。近時、日本でも認知症患者の徘徊が大きな社会問題になっているが、それに比べればテオの病状は相当良好かもしれない。もっとも、テオはたまたまフレッドとの同居生活という恵まれた環境が与えられたからラッキーだったが、徘徊、放浪中に周りの人たちから見放されていたら、テオはどうなっていたのだろうか?
 他方、フレッドの方もせっかくテオとの同居生活が軌道に乗りつつある中、れっきとした妻が登場し、帰るべき家があることがわかると、その対応は・・・?実はフレッドも愛妻を交通事故で失っていたため、フレッドとサスキアの語らいはすぐに心のこもったものになり、サスキアも安心してテオをフレッドのもとに預けることができたようだが、そんな中テオの選択は?厳格な規律の中で、孤独に耐えて一人で生きていたフレッドの生活は今やテオの登場によって大きく変化していたが、テオが妻のもとに帰ることになると、再びフレッドの心の中にはポッカリと大きな穴が。さて、フレッドは再び訪れたそんな孤独に耐えられるのだろうか?また、いったんは当然のように妻のもとに戻ったテオだが、その後のテオの選択は?

<なぜ原題は『Matterhorn』に?>
 本作の邦題は『孤独のススメ』だが、原題は『Matterhorn』で、邦題とは全く違っている。マッターホルンはスイスにある高い山だが、フレッドは妻と共にそこに登る中で結婚の申し込みをし、指輪を手渡したらしい。つまり、フレッドにとってマッターホルンは亡くなった愛妻との最高の思い出がつまった場所というわけだ。また、フレッドはサスキアに対して「妻も息子も失った」と説明していたが、どうも息子の方は厳格な父親と喧嘩別れをして出て行ったきり縁を切っているだけで、死に別れではないらしい。
 そんな中、再びテオがフレッドのもとに戻り2人の共同生活が再開すると、フレッドはマッターホルンへの思いが日々つのってくることに。トラップ大佐がマリアとの心の交流の中でホントの男女の愛に目覚めたように、フレッドもテオとの心の奥の交流の中でテオに対する愛(?)が芽生えるとともに、人間にとってホントに大切なものは何かが少しずつわかってきたわけだ。そんな状況下、遂にフレッドはテオと共にマッターホルンに登ることを決断したからすごい。その結果、本作のラストに向かっては、マッターホルンのすばらしい風景が広がっていくことになる。さあ、フレッドがテオと共に登ったマッターホルンの山々の中で2人が得ることができた心の解放とは?

<バッハの曲から思いもよらないクライマックスへ!>
 本作冒頭は、バッハの名言「難しくはない。しかるべき時にしかるべき鍵盤を叩きさえすればいいのだ」との字幕が流れる。これは「音楽の父」と称されるバッハが言うからコトもなげに聞こえるが、それをやるのは大変なことだ。そして、本作には、全編バッハの静かな音楽が流れてくる。
 ところが一転して、本作ラストのクライマックスの舞台は、あるナイトクラブになる。そこで『This Is My Life』を声高らかに歌っているのは、フレッドと喧嘩別れをして出て行ったきりのフレッドの息子ヨハン(アレックス・クラーセン)だ。長い間別れたきりの父親が観客席にいるのを発見したヨハンは、父親の雰囲気から父親の和解の思いを理解したらしく、高らかに歌いながらもにこやかな微笑みをフレッドに。これにて父子の和解は成立!なるほど、人生っていいものだ。高らかに、ヨハンの歌声が響く中、86分という短い映画ながら、ラストはそんな感慨でいっぱいに。
                                  2016(平成28)年5月6日記