洋16-23

「キャロル」
    

               2016(平成28)年2月21日鑑賞<TOHOシネマズ西宮OS>

監督:トッド・ヘインズ
原作:パトリシア・ハイスミス『The Price of Salt』
キャロル・エアード(美しい女性、ハージの妻)/ケイト・ブランシェット
テレーズ・ベリベット(フォトグラファーに憧れる女性)/ルーニー・マーラ
ハージ・エアード(キャロルの夫)/カイル・チャンドラー
リチャード・セムコ(テレーズの恋人)/ジェイク・レイシー
アビー・ゲーハード(キャロルの親友)/サラ・ポールソン
2015年・アメリカ映画・118分
配給/ファントム・フィルム

<時代の違いを明確に!1950年代VS2010年代>
 本作は、今風に言えば女同士の同性愛、レズビアンの物語。女同士の同性愛の映画と言えば、近時は『アデル、ブルーは熱い色』(13年)(『シネマルーム32』96頁参照)、古くは『中国の植物学者の娘たち』(05年)(『シネマルーム17』442頁参照)、日本でも古くは谷崎潤一郎の原作を若尾文子と岸田今日子を共演させて映画化した『卍』(64年)等が有名だが、トッド・ヘインズ監督の代表作の1つである『エデンより彼方に』(02年)(『シネマルーム3』165頁参照)でも表現されていた、1950年代の「古き良き時代のアメリカ」にもそれはあったらしい。
 しかし、本作をそんな範疇の映画に分類してしまうことに私は少し違和感がある。つまり、本作は女同士の同性愛の物語ではあるけれども、それ以上に「ロミオとジュリエット」と同じ「純愛劇」とまでは言えないまでも、それと同じくらいの高レベルで女同士が互いに惹かれ合い、恋に落ちていく「恋愛劇」というべきもの。つまり、本作のクライマックス(?)に登場する美しい女同士のセックスは、2人の恋心が極限まで高まった後の究極の「愛のカタチ」として登場するわけだ。
 当然、女同士の同性愛もあれば、男同士のそれもある。『ブロークバック・マウンテン』(05年)(『シネマルーム10』262頁参照)や『ミルク』(08年)(『シネマルーム22』42頁参照)、中国、フランス映画では『スプリング・フィーバー(春風沈酔的晩上)』(09年)(『シネマルーム26』73頁参照)等がその典型だが、私の身近でも大阪弁護士会に所属する2人の男性弁護士が同性愛であることをカミングアウトしたうえ、2015年7月2日には『同性婚―私たち弁護士夫夫です』を出版している。このように、2010年代の今では、「LGBT」(レズビアン・Lesbian、ゲイ・Gay、バイセクシュアル・Bisexual、トランスジェンダー・Transgender)という言葉が定着し、「同性婚」も裁判所で認められる等、男同士、女同士を問わず、同性愛は「市民権」を得ている。しかし、いかに「古き良きアメリカ」とはいえ、1950年代のアメリカでの女同士の同性愛の認知度は?

<2人の出会いは?恋模様(?)の展開は?>
 本作で恋に落ちる(?)、一方の主人公キャロル・エアード(ケイト・ブランシェット)は4歳の娘リンディを持つ母親で、別居中の夫ハージ・エアード(カイル・チャンドラー)と離婚協議中の美しい人妻。離婚原因の内容やどちらの言い分が正当かは、2人の「論争」を聞いて各自が判断することだが、男尊女卑の当時のアメリカにおいて、ハージはごく一般的な亭主関白の男。しかも、妻に対しても子どもに対しても愛情を持っているから、どちらかというと私は、その争いについては夫側を支持したくなってくる。逆に言うと、その分、1950年代のアメリカで、キャロルはそれだけ「確固たる自分」を持った「自立した女」と言うことだ。なお、キャロルにはアビー(サラ・ポールソン)という女性の「親友」がいたが、ハージはどうもこの2人の仲も疑っているらしい。現にストーリー展開を見ていると、キャロルとアビーとの間にもかつて「女同士の関係」があったようだから、ハージがそれにこだわったのは当然だ。しかして、2人の離婚問題は共同親権だったリンディについてハージが単独親権の主張に切り替えたため、私が現在担当している北海道の離婚事件と同じように深刻化、泥沼化していくことに・・・。
 もう一方の主人公は、フォトグラファーを夢みる若い女性テレーズ・ベリベット(ルーニー・マーラ)。彼女は、デパートのおもちゃ売り場で働いていた時、客としてやってきたキャロルに一目で魅かれていったが、それは一体なぜ?いかにも高価そうな毛皮のコートが良く似合うマダム風のキャロルは、どこでも自信たっぷりの振る舞いだが、一緒に食事してもオーダーする料理すら自分で決められないテレーズは何事も控え目で、未だ「自己の確立」ができていないようだ。若いからそれも仕方ないかもしれないが、テレーズの勧めるままに娘のクリスマスプレゼントとして高価な鉄道の模型をポンと購入したキャロルが、これも高価そうな皮の手袋を展示ケースの上に忘れていったのは、ひょっとしてそんなテレーズの若さと未熟さを読み取った上での計算づく・・・?
 本作導入部から前半にかけては、あくまでキャロルが主導、テレーズが受身というスタンスで女同士の恋模様(?)が進んでいくので、それをタップリと味わいたい。

<Wノミネートの2人の女優に注目!>
 キャロルがキャサリン・ヘップバーン風に堂々としている(?)のはある意味当然だが、私が驚いたのは、全編を通じてテレーズがオードリー・ヘップバーンに良く似ていること。韓国映画『怪しい彼女』(14年)では、20歳に若返る主演女優にあえてオードリー・ヘップバーン風の髪型、服装をさせていた(『シネマルーム33』282頁参照)が、いくら髪型、服装を似せても顔の違いは明白だった。しかし、ルーニー・マーラにオードリー・ヘップバーン風の髪型、服装をさせれば、ホンモノそっくりになるのでは・・・?
 ちなみに、このルーニー・マーラは『ドラゴン・タトゥーの女』(11年)では「身長150cmで痩身、背中にはドラゴンのタトゥーがあり、服装は黒の革ジャンに鋲打ちのベルト、鼻にはピアス」というスタイルのヒロイン、リスベット・サランデル役を見事に演じてアカデミー賞とゴールデングローブ賞の主演女優賞 にノミネートされていた(『シネマルーム28』37頁参照)から、リスベット役と本作のテレーズ役との極端な差にビックリ。
 なお、本作は第88回アカデミー賞で作品賞と監督賞にはノミネートされなかったが、ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラの2人は主演女優賞、助演女優賞にWノミネートされているので、その結果に注目!

<原作者に注目!なぜ別名義で小話を発表?>
 アラン・ドロンが主演したルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』(60年)は、名作中の名作で、『リプリー』(99年)というタイトルでもリメイクされた。その原作者がパトリシア・ハイスミスという女性作家で、『太陽がいっぱい』は彼女の長編第3作だ。そんな彼女のデビュー作は、読んでもいないし観てもいないが『見知らぬ乗客』(50年)で、アルフレッド・ヒッチコック監督が映画化しているらしい。ちなみに、『ギリシャに消えた嘘』(14年)(『シネマルーム36』136頁参照)も彼女の原作で、映画化された彼女の原作は20作以上に上るらしい。
 そんな彼女の第2作『The price of Salt』は1952年にクレア・モーガンという別名義で出版されたそうだ。それは、その頃『見知らぬ乗客』の成功によって“サスペンス作家”のレッテルを貼られたことから、彼女はもしこの“女性同士の恋愛”の物語を発表すれば、また別のレッテルを貼られるのではと恐れ、“クレア・モーガン”という名義で出版することを決めたためだ。だが、当時は同性愛への偏見が強かったため、『見知らぬ乗客』の出版社はこの小説を拒否し、1952年に別の出版社からハードカバーが刊行されたそうだ。ところが、その翌1953年にペーパーバック版が出版されると、当時としては画期的な100万部を超える大ベストセラーになったそうだ。それから約30年後の1984年に、60代になった彼女は自分の名前で、タイトルも元の『Carol』に戻して出版したそうだ。
 ちなみに、ハイスミスの小説は、唯一、本作『キャロル』の原作『The price of Salt(よろこびの代償)』だけがこれまで邦訳されていなかったが、映画の公開によって邦訳が出版されたそうだ。本作の鑑賞については、そんな原作に注目!

<離婚と親権の争いでは敗北したが・・・>
 『テルマ&ルイーズ』(91年)は親友同士の、独身女性ルイーズと専業主婦のテルマが繰り広げる面白いロードムービーだったが、そこではさまざまなハプニングが起きていた。それと同じように、本作でも中盤のクライマックスは、キャロルとテレーズの2人による車での旅になる。これはリンディの共同親権を単独親権に切り替える旨の申立を裁判所に申し立て、ハージのもとに戻ってこなければリンディには二度と会わさないぞという、ハージの闘争宣言を受けて、裁判所から審問まで当分の間リンディに会うことを禁止されてしまったキャロルの心を癒すための旅だが、それにテレーズを同行させてはまずいのでは……。なぜなら、ハージがそんな申立をした理由の一つは、キャロルと親友のアビーとの友情を超えた「親密さ」だったのだから。つまり、「同性愛」の相手がアビーからテレーズに変わったとハージから主張されれば、キャロルはかなりやばいのでは・・・?
 現実に、旅の途中のモーテルで格安のスイートルームに泊まった2人はめくるめくような「女同士の幸せ」を享受したが、それがすべてハージの依頼した私立探偵によって隣室から録音されていたから大変だ。このような進行の中、離婚と親権の争いで明らかにハージに敗北したと認識したキャロルは、審問の場で自分の依頼した弁護士の意見を無視してまで、ハージのもとに帰ると宣言したが、それはひょっとしてテレーズとの愛の終りを意味するの・・・?
 本作中盤から終盤にかけては、「サスペンス作家」と呼ばれることに抵抗した原作者ハイスミスが意図したとおりの何とも興味深い女同士の純愛劇(?)をトッド・ヘインズ監督が巧妙に演出していくので、それに注目!

<喫煙シーンがやけに多いが・・・>
 1950年代のアメリカではタバコの有害性はほとんど社会的に意識されていなかったから、名作映画ではかっこいい喫煙シーンがたくさん登場するし、それに文句をつける人もいなかった。しかし、私の友人で、たばこ問題専門紙「禁煙ジャーナル」の編集長でもある渡辺文学氏は「禁煙権」を主張し、喫煙シーンが目立つ「ワースト映画10」なども発表している。そんな渡辺氏が本作を観れば、キャロルのみならずテレーズも盛んにタバコを吸っているシーンに、きっと苦言を呈するだろう。
 しかし、キャロルのように、1950年代には珍しい自立した大人の女を目指す女性にとっては、タバコは必需品・・・? また、恋人のリチャード(ジェイク・レイシー)からの求婚にスンナリ応えることができないばかりか、キャロルのような素敵な年上の女性に惹かれてしまうテレーズのような中途半端な若い女性にとっても、タバコはちょっとした心の安らぎとして必需品・・・?
 ちなみに、近時読んだ百田尚樹氏の『大放言』(15年、新潮新書)は面白かったが、そこでは「テレビの規制は何のため?」という項目で、「殺人はOKでも信号無視はNG」と書かれていた。そのココロは、刑事ドラマなどでよく登場する、銀行強盗の犯人たちが車で逃走するシーンでは犯人は必ずシートベルトをしなければならず、もしシートベルトをしないで車で逃走するシーンを放送したら、テレビ局は警察からこっぴどく注意されるそうだ。百田氏はそんなバカげたテレビの規制を憤っているわけだが、「喫煙シーンが多い本作はけしからん」というのは、それと同じようにバカバカしい理屈なのでは・・・。主演女優賞と助演女優賞にダブルノミネートされた2人の女優にとって、本作ではかっこいい喫煙シーンは不可欠だから、そのような批判には耳を貸さず、本作では2人の女優の喫煙シーンをしっかりと楽しみたい。
                                  2016(平成28)年2月24日記