洋16-1 (ショートコメント)

「禁じられた歌声」
    

                     2016(平成28)年1月4日鑑賞<テアトル梅田>

監督・脚本:アブデラマン・シサコ
ギダン(トヤの父)/イブラヒム・アメド・アカ・ピノ
サティマ(トヤの母、ギダンの妻)/トゥルゥ・キキ
トヤ(ギダンとサティマの一人娘)/ライラ・ワレット・モハメッド
イサン(12歳の牛飼いの少年)/メド・A.G.・モハメッド
アブデルグリム/アベル・ジャフリ
ファトウ/ファトウマタ・ディアワラ
ジハーディスト/イチャム・ヤクビ
ザブー/ケトゥリ・ノエル
2014年・フランス、モーリタニア映画・97分
配給/レスペ

◆西アフリカのマリ共和国の古都ティンブクトゥを舞台にした、アフリカ人監督アブデラマン・シサコによる本作は、2015年のフランスでセザール賞7部門を受賞するとともに、第87回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、フランス本国で100万人を動員したらしい。しかし、そう聞いても、私たち日本人にはマリ共和国は遠い国。また、シサコ監督は全く未知の人であるうえ、イスラム過激派やIS(イスラム国)の活動もニュースで観るだけの、遠い国の出来事だ。
 予告編を見た限りでは、音楽やスポーツを愛する元々遊牧の民である珍しいトゥアレグ族が住んでいる村が、ある日突然イスラム過激派によって占拠されることに。そして、邦題どおり歌を歌うことが禁止されるとともに、サッカー等も禁止。女たちは、イスラム過激派が要求する厳しい戒律に服するよう命じられたが・・・。

◆マリ共和国の北部にある町、アゲルホクでは2012年7月、イスラム過激派による若い事実婚カップルの投石公開処刑事件が起きたらしい。本作はそんな事件に触発されたシサコ監督が製作を進めたものだ。主人公は妻サティマ(トゥルゥ・キキ)、一人娘のトヤ(ライラ・ワレット・モハメッド)、そして牛飼いの少年イサン(メド・A.G.・モハメッド)とつつましく暮らしている男ギダン(イブラヒム・アメド・アカ・ピノ)。この家族とイスラム過激派のリーダーたちの顔と名前くらいはわかるが、女は顔をヴェールで被っているうえ、男も顔を隠すことが多いので、とにかく本作では人物の認識が難しい。
 もっとも、本作は細かいストーリーを追っていく映画ではなく、ある日突然、イスラム過激派の支配下におかれたことによって美しい村の景色と人々の暮らしが突然変わっていく理不尽さを壮大な叙事詩として描く映画なので、そのつもりで・・・。

◆本作については、チラシにも絶賛する言葉が並んでいる他、『キネマ旬報』1月下旬号の「REVIEW 鑑賞ガイド」では上野昻志氏、千浦僚氏、八幡薫氏がそれぞれ5点、4点、4点という高評価を与えている。そのうえ、「人びとの心の叫びが深く重層的に響いてくる。必見作。」「アブデラマン・シサコ監督の名前は憶えておきたい。今の時代を知る上でも必見。」というフレーズが目立ったため、劇場に足を運ぶことに。
 しかし、観客はごく少数。そりゃそうだろう。自由を謳歌している今の日本で、イスラム過激派に支配され、歌声さえ奪われたマリ共和国の村の現実を、わざわざ劇場まで足を運びスクリーン上で観ようと考える日本人が少ないのは仕方ない。私自身もある程度ストーリーの流れがわかると、残念ながらつい睡魔が・・・。

◆とは言え、本作後半に展開されるイスラム過激派のリーダーによるギダンの尋問風景は相当迫力がある。もちろん、その風景は西欧社会の一員としての私たちが信奉している法と民主主義とは全く違う価値観にもとづく展開であり、質問、反論だが、なるほどこれがアラーを信奉するイスラム社会の価値観(の一部)なのかと考えさせられてしまう。とりわけ、強く印象に残るのは、「裁かれるのは仕方ない。殺されるのも仕方ない。なぜなら、それは神のおぼしめしだからだ。しかし、その前に娘や妻に一目会いたい。」というギダンのセリフだ。『裁かれるは善人のみ』(14年)では法の無力を思い知らされたが、本作を観れば、少なくともイスラム国家においてはアラーの神の下の法は存在しているらしい。しかし、私たち日本人にはそれは理解の範疇を超えているため、ギダンの「裁判」の結果や本作の結末に向けての展開にも意外感が強い。もう一度居眠りしないで最初からしっかり観れば印象が変わるのかもしれないが、やはり日本人には本作は少し難しすぎる感が・・・。
                                  2016(平成28)年1月8日記