洋16-15 (ショートコメント)

「あの頃エッフェル塔の下で」
    

                       2016(平成28)年1月30日鑑賞<テアトル梅田>

監督・脚本:アルノー・デプレシャン
ポール・デダリュス(高校生)/カンタン・ドルメール
エステル(ポールの恋人、デルフィーヌの同級生)/ルー・ロワ=ルコリネ
ポール・デダリュス(大人)(外交官、人類学者)/マチュー・アマルリック
イヴァン(ポールの弟)/ラファエル・コーエン
デルフィーヌ(ポールの妹)/リリー・タイエブ
ボブ(ポールの従弟)/テオ・フェルナンデス
コヴァルキ(ポールの友人)/ピエール・アンドロー
ペネロープ(ポールの友人、デルフィーヌの親友)/クレマンス・ル・ギャル
メディ(ポールの友人)/ヤシーヌ・ドゥイギ
ジルベルト(ポールの浮気相手)/メロディー・リシャール
イリーナ(ポールのドゥシャンベでの恋人)/ディナーラ・ドルカーロワ
アベル(ポールの父)/オリヴィエ・ラブルダン
コヴァルキ(大人)/エリック・リュフ
マルク・ジルベルベルグ(高校生時代の親友)/エリヨ・ミルシュタン
ルイーズ(ボブの母)/アンヌ・ブノワ
ベアンザン教授(パリのソルボンヌ大学の教授)/エーヴ・ドエ=ブリュス
クラヴリー(情報局捜査官)/アンドレ・デュソリエ
ジャンヌ(ポールの母)/セシル・ガルシア・フォジェル
ローズ(ポールの大叔母)/フランソワローズ・ルブラン
シドロフ夫人/イリーナ・ヴァヴィロヴァ
2015年・フランス映画・123分
配給/セテラ・インターナショナル

◆フランス人のアルノー・デプレシャン監督は、『そして僕は恋をする』(96年)、『キングス&クイーン』(04年)、『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』(13年)等で有名な監督らしいが、残念ながら私は1本も観ていない。本作は、50代になったアルノー・デプレシャン監督が、今から約20年前の『そして僕は恋をする』のポールとエステルを再び主人公とし、自分の体験を投影させながら(?)若き日の恋愛を振り返ったもの。
 パリの大学に入った19歳のポール・デダリュス(カンタン・ドルメール)と、故郷のルーベで「学園の女王」として君臨する16歳のエステル(ルー・ロワ=ルコリネ)との恋愛模様が本作のメインだが、本作はフランス大使館に勤める外交官で人類学者のポール・デダリュス(マチュー・アマルリック)が、「ある事件」をきっかけに昔を振り返るという形式をとっている。「ある事件」とは、パリに帰国したポールが空港で「同姓同名のパスポートを持つ男がいる」として情報局で取り調べを受ける羽目になることだが、なぜそんなことに・・・?その疑問はストーリー展開の中で徐々に説明されていくが、私の根本的な疑問は、若き日の恋愛の日々を回想するきっかけとするため、なぜそこまで大層な設定をしなければならなかったの?ということだ。
 本作は、①少年時代、②ソビエト連邦、③エステルという3部構成になっており、「②ソビエト連邦」では、見方によっては「本作はスパイ映画?」と思うような展開になっていく。しかし、私が思うに何もわざわざそんな構成にする必要はなかったのでは?

◆本作のオーディションでエステル役に選ばれたルー・ロワ=ルコリネは、「本当は俳優になりたかったわけではなく、演出に興味があったのですが、高校の演劇の先生に強く勧められてオーディションを受けました。」と語っている。他方、アルノー・デプレシャン監督は、ルー・ロワ=ルコリネについて、「ルー・ロワ=ルコリネに会った時のこともはっきりと覚えています。ある日、オーディションの会場で4、50人ほどの若い人たちが集まっていました。その中に彼女はいて、ひとりだけ仏頂面をしていました。彼女を見ているうちに“この子はカメラに抵抗することができる”と気がついたのです。エマニュエル・ドゥヴォスと一緒です。“顔が存在し過ぎている”。目も、口も、存在し過ぎている過剰な顔が、私のカメラに合っていたのです。エステル役は強い存在感があります。彼女は“存在の塊”です。彼女がエステルの存在感に多くのものをもたらしてくれました」と言っているそうだ。
 しかし、本作のストーリー展開を見ていると、エステルは「学園の女王」と呼ばれているものの、それはルーベという小さな町の中だけであることがわかる。たしかに、16歳のエステルは小悪魔的な魅力はあるが、パリの大学に入ったポールと本格的な恋人関係になると、エステルの弱さがあちこちに・・・。『愛と死を見つめて』(64年)では、東京と大阪で遠距離恋愛を続けたマコこと河野實とミコこと大島みち子は膨大な量の手紙の交換をしていたが、パリとルーベで遠距離恋愛をするポールとエステルもそれは同じ。しかし、そこでポールとエステルが違うのは、マコとミコのような「純愛」ではなく、離れている間に寂しさのあまり互いに浮気をしてしまうこと。ちなみに、エステルの男の中にはポールの従弟のボブ(テオ・フェルナンデス)もいたうえ、その数は片手以上らしいからアレレ・・・。フランス人の恋愛観やセックス観の「自由度」は日本人とは全然違うから、自分の体験を基にしたアルノー・デプレシャン監督の回想録的な恋愛は本作どおりだったのかもしれないが、日本人の私にはそんな展開に違和感が・・・。

◆16歳のエステルに対して、19歳のポールがモーションをかける時点では、「恋の力関係」における優位性は圧倒的にエステルが上。だって、エステルの周りには女の子の友人はいないものの、いつも男たちにチヤホヤされていたのだから。本作が面白いのは、その力関係、優位性が次第に逆転していく姿だが、こんなことってホントにあるの?
 本作の英題は『My golden days』だから、本作の本筋どおりのタイトル。しかし、邦題の『あの頃エッフェル塔の下で』は、大学時代に苦学生としてエッフェル塔の見える屋根裏部屋で暮らしていたポールの一瞬を切り取ったものだ。当初「学園の女王」として君臨していたエステルも、ポールとの恋に落ちた後はポールと共に過ごすベッドの中で惜しみなくヌード姿を披露してくれる。このように、精神的にも肉体的にも次第にポール一筋になっていったエステルは、もはやポールが側にいなければ不安にかられてしまうほどになっていたらしい。そのため、エッフェル塔の見える屋根裏部屋で2人で過ごし、セックスに明け暮れた時は良かったが、いざルーベに帰らなければならなくなると、エステルの精神と肉体は・・・?

◆互いに愛し合っているのに、「仕事中毒」の男は女に対して愛を示すことを怠り、その結果女から別れを告げられる。そんな物語は世の中にたくさんあるが、基本的に本作もそんな展開になっていく。大学時代、ベアンザン教授(エーヴ・ドエ=ブリュス)の下で懸命に勉強を続けていたポールは、ベアンザン教授との辛い別れを経験した後、調査のためにドゥシャンベを初めて訪れていたが、その時ついにエステルから別れの電話が・・・。その言葉は、「愛してるのに、遠すぎる。別れましょう」というものだったが、ことここに至れば、もはや修復は不可能だ。
 ポールが若き日のエステルの恋愛のことを思い出したのは、スパイ容疑(?)で空港で足止めをくらったため。その「取り調べ」の中で、ポールは高校生だった時に親友のマルク・ジルベルベルグ(エリヨ・ミルシュタン)の誘いで、当時ソ連だったベラルーシのミンスクへ研修旅行に行き、その際自分のパスポートをマルクのために提供するという極めて危険な行為を行っていたことを思い出さされた。その自分の「分身」とも言えるマルクが死亡したと聞かされたポールは大きく動揺し、自分の人生を決定したエステルとの「初恋」を振り返り、あの当時の大量の手紙を読み返したわけだ。
 しかして、そんなストーリー展開の後、本作のエピローグに見るポールの行動とは?私はこれにもかなり違和感があったが、さてあなたは・・・?
                                  2016(平成28)年2月2日記