洋15-74

「私の少女」
    

                    2015(平成27)年5月30日鑑賞<シネ・リーブル梅田>

監督・脚本:チョン・ジュリ
ヨンナム(ソウルのエリート警官)/ペ・ドゥナ
ドヒ(母親が蒸発して義理の父親と義理の祖母に虐待されている少女)/キム・セロン
ヨンハ(ドヒの父親)/ソン・セビョク

2014年・韓国映画・119分
配給/CJ Entertainment Japan

<35歳の女性監督初の長編、映画の設定は?2人の女優の設定は?>
 本作の邦題は『私の少女』、そして英題は『A GIRL AT MY DOOR』だが、原題は『ドヒ』。つまり原題は、母親に捨てられ、養父ヨンハ(ソン・セビョク)と祖母からひどい虐待を受けている14歳の少女ドヒの名前をストレートに付けたもの。しかし、それだけでは何の映画かサッパリわからないため、邦題も英題も、ドヒと真正面から向き合う、若きエリート女性警官のヨンナム(ペ・ドゥナ)の存在感を明確に打ち出している。本作は1980年生まれの女性監督チョン・ジュリの長編デビュー作だが、自分が20歳の頃に聞いた小さな寓話をもとに自分で脚本を書いている。そして、そこではもともと「最も寂しい2人の女性が出会う」という設定を考えていたらしい。
 そんな虐待を受け続ける少女役に現在最もふさわしい韓国人女優は、『冬の小鳥』(09年)では父親に捨てられ孤児院に入れられてしまった9歳の少女ジニを演じ、『アジョシ』(10年)では『レオン』(94年)でナタリー・ポートマンが演じた12歳の少女マチルダと同じような(?)少女ソミを演じた(『シネマルーム27』51頁参照)キム・セロンで決まり。これ以上の適役はいないだろう。他方、映画冒頭に登場するエリート女性警官ヨンナムも、ソウルから小さな海辺の村の警察署長として赴任してきたというから、何かいわく因縁がありそう。韓国にはそんな役を演ずる演技派女優は山ほどいるから、予告編やチラシで『春の日のクマは好きですか?』(03年)(『シネマルーム11』310頁参照)、『グエムル―漢江の怪物―』(06年)(『シネマルーム11』220頁参照)、『リンダ リンダ リンダ』(05年)(『シネマルーム8』161頁参照)、『空気人形』(09年)(『シネマルーム23』225頁参照)等のペ・ドゥナが演じると聞いた時は、少し違和感があった。しかし、ヨンナムとドヒとの最初の出会いを含めて、本作の主人公となる2人の女性には不安感がいっぱい。ドヒのみならずヨンナムも、それを少ないセリフの中で見事に表現している。
  もともと、それほど美人顔とはいえない(失礼?)だけに、本作のエリート女性警官ヨンナムのような役は女優ぺ・ドゥナにはお似合いだ。ちなみに、世の中には制服フェチの男性も多いから、ヨンナムのキリリとした制服姿に満足する男性ファンも多いのでは・・・?

<小さな海辺の村は社会問題のるつぼ!>
 若い女性警官のヨンナムが警察署長になれたのは、彼女が「キャリア組」であるためだが、何の因果でヨンナムのような若い女性が小さな海辺の村の警察署長として赴任してきたのか、村の人々は興味津々。しかし、チョン・ジュリ監督は、そういう面には全然興味を示さず、あくまでドヒという少女の虐待問題をメインに本作のストーリーを作り上げていく。
  ドヒの義理の父ヨンハは村でたった一人の働き者の若者らしいから、当初紹介された時の彼は村の期待の星?また、ドヒの祖母もオート三輪を乗り回す暴れん坊だが、見方によっては愛嬌のあるパワーいっぱいの老人。しかし、一皮剥いてみないと、人間なんてわからないものだ。ヨンナムが目にした、ヨンハと祖母によるドヒ虐待の姿はそりゃひどい。これに比べれば、ドヒへの学校でのいじめ問題なんて、屁みたいなもの・・・?
 他方、本作中盤以降は、突如「外国人労働者が騒いでいる」という連絡が入ってくる中、ヨンハが漁の仕事のために雇っているたくさんの外国人が不法滞在らしいという大問題が浮かび上がってくる。何と、ヨンハによるそんな不法、違法な就労を知りながら、村全体が生き残るためにそれを見逃していたというわけだ。韓国でも日本と同じように「長いものに巻かれろ」ということわざがあるし、ヨンナムの任期もどうせ1年程度だから、ヨンナムもそんな不正は黙って見逃すという生き方があったはずだが、さて、ヨンナムは・・・?
 さらに、赴任早々のヨンナムに立派な官舎があてがわれたのは田舎の村ならではのことだが、そこでヨンナムが一人で焼酎を水と同じようにがぶ飲みしている姿を見ると、この女もまともではなさそうだ。チョン・ジュリ監督は意外にも、導入部ですぐにヨンナムがソウルから田舎の村に左遷された理由を観客に見せてくれるし、ヨンナムが焼酎が無ければ眠れないほどの心の痛みを持っていることを見せてくれる。しかして、ヨンナムの抱えるプライベートな問題とは・・・?去る5月25日、アイルランドでは同性婚を認める憲法改正の国民投票が実施され可決されたが、韓国ではまだまだ。まして、ヨンナムが赴任した田舎の漁村では、レズビアンなんてもっての外だ。本作中盤、ヨンナムの「元カノ」がヨンナムを訪ねてくるシーンにはビックリさせられたし、その後のストーリー展開も興味深かったが、こんな目で本作を見れば、本作の舞台となっている海辺の小さな村は社会問題のるつぼ!
 
<14歳の少女の供述能力は?責任能力は?また、悪知恵は?>
 豊かで平和、そして自由な社会が続く中、日本では若者の「暴走」が止まらず、少年犯罪は増加し険悪化の一途をたどっている。同様に、いじめ問題も増加の一途だから、ややもすれば単純な善悪二分法で判断してしまうマスコミは、被害者はかわいそう、加害者は厳罰モノという方向になりがちだ。しかし、その是非は?本作に見る若きエリート警官ヨンナムが、酔っぱらってドヒに暴力をふるっているヨンハを難なく取り押さえる格闘術を身につけているのは当然。そんなヨンナムがさらに、ヨンハをいきなり逮捕せず、何度も注意を与え警告を加えている姿を見ると、警官としての事件処理のやり方もさすが優秀。したがって、暴行を受けて傷だらけになっているドヒがヨンナムの家に駆け込んできた時の保護のやり方も、当初はそれなりに合理的だったが、さてその後は・・・? 
  ある日ドヒをオート三輪で追いかけてきたドヒの祖母が海に突っ込んで死亡した事件についても、ちゃんと鑑識の意見書をつけて「事故死」と判断して処理したのは合理的。しかし、弁護士の私の目には、祖母の死亡事件について14歳の少女ドヒの供述能力や責任能力をどう見るのか?という大きな問題が見えてくる。チャン・ジュリ監督はパンフレットの中で、「ドヒにとっては、虐待よりも親に捨てられたことに大きな意味があると思います」と語っているが、そんなドヒの大人のような子供のような表情を見ていると、祖母の死亡について、ドヒが語っていることはホントに信憑性があるの?そんな疑問を持たざるをえない。したがって、本作を鑑賞するについては、ドヒを「義父や祖母から虐待を受ける可哀想な少女」という目だけで見ないことが大切。こんなかわいい女の子だって、ひょっとしてウソをついているのでは・・・?残酷かもしれないが、そんな疑いの目でドヒを見ることも大切だ。

<ヨンナムはどこまでやるべき?これは公私混同?それとも?>
 本作中盤では、女性監督らしい繊細さで、ヨンナムとドヒの奇妙な女同士の共同生活が描かれる。雨の中、ドアを叩いたドヒを家に入れてやり、髪の毛を拭いてやり、風呂に入れてやるのは警察署長としてある意味当然・・・?また、風呂に入れた時、背中に見たひどい傷を優しく撫でてやるのも、ある意味当然・・・?しかし、夏休みの間ずっとドヒを自分の家に預かると宣言したのは、公私混同?また、食事の世話をし、服を買ってやり、さらに水着を買って一緒に海水浴に行くのは、公私混同?それとも・・・?
 ヨンナムの中に母性的な感情が湧いてきたのか?あるいはひょっとして、忘れていた同性愛の感情が芽生えてきたのか?それは男の私にはわからないが、本作中盤で描かれるヨンナムとドヒの女同士の共同生活については、その是非をめぐってさまざまな意見があるはずだ。そもそも、警察署長であるヨンナムが、自分の家にドヒを1日だけ泊めてやるのはともかく、夏休みの間ずっと預かるというのは行きすぎで、公私混同。それがオーソドックスな意見だろうから、やはり本作に見るヨンナムの行動は行きすぎ?たしかにそうかもしれないが、人間は感情の動物だし、このままドヒをヨンハの家に帰せば虐待が待っていることがわかると、つい・・・。
 本作のクライマックスに向けては、中盤に展開されるそんな2人の女の共同生活と、そこに見る心の交流をしっかり分析することが不可欠だ。

<問題点は次々と頂点に!ヨンナムとヨンハの対決は?> 
 私はヨンナムの元カノとして登場した女性がベッピンだっただけに、本作中盤2人の間にどんな物語が展開するのかに期待したが、残念ながらそれは肩すかし。チョン・ジュリ監督は私のように興味本位にそれを追うのではなく、あくまで本作のストーリーの論点整理の1つとしてそれを活用している。ヨンナムとヨンハとの対立は当初からミエミエだったが、①長期のヨンハによるドヒへの児童虐待の対応、②祖母の死亡事件を事故として処理したことの是非、③ヨンハが行っている不法労働、不法滞在問題の処理、等をめぐって、本作中盤ではヨンナムとヨンハの対立が激化していくことになる。こんな田舎の漁村までヨンナムを訪ねてきた元カノとの逢瀬や、たまたまのキスシーンをそんなヨンハに目撃されたのはヨンナムの不運としか言いようがない。しかし、母国に帰りたいと暴れるインド人の不法労働者に対して殴る蹴るの暴行を加えているヨンハを、ヨンナムが断固逮捕したのはある意味当然だが、それが村人たちに不評だったのは想定外。つまり、村人たちにとっては、ヨンハの犯罪を取り締まることよりも、村でただ一人の若者の有能な働き手がいなくなることの方が重大事だったわけだ。
 しかして、本作終盤からクライマックスにかけては、ヨンハから未成年者の性的虐待の罪で訴えられたヨンナムが、警察に連行されるシーンが登場する。また、警察の取り調べを受けたドヒも、ヨンナムとの関係について何とも微妙な供述をするシーンが登場するから、そんなストーリー展開に注目!もともと同性愛者だったことがバレて、ヨンナムはこんな田舎村に左遷されてきたのだから、今度は14歳の女の子に・・・?そう疑われても仕方ないが、さてその真相は・・・? 

<あっと驚く結末は?ドヒの「悪知恵」にビックリ!>
 14歳の少女の供述能力や責任能力に問題があることは前述したが、本作ラストにはあっと驚く結末が待っている。そしてそれは、ドヒのあっと驚く「悪知恵」にもとづくものだから、それに注目!昔と違って今はケータイという便利なものがあるから、毎日のように酒を飲んだヨンハからひどい虐待を受けているドヒに対してヨンナムがケータイを渡し、「何かあれば連絡しろ」と指示したのは当然。しかし、ヨンナムが未成年者への性的虐待の罪によって、同僚の警官に逮捕され、留置場に入れられてしまうと、ヨンナムに代わってその役割を担うのは・・・?それはヨンナムを逮捕した若手の警官だが、今時ケータイが1台あれば、それなりの「演出」ができることが本作を観ているとよくわかる。しかして、本作に見る、あっと驚く結末とは?そこには、1台のケータイを媒介とした、ものすごい強姦(?)シーンが登場するので、それに注目!
 本作の結末に見るドヒの悪知恵とその高度な演技力は、弁護士を40年間やっても、男の私には所詮想像できないもの。こりゃどう見ても、ドヒという女の子特有の悪知恵としか言いようがない。松本清張の小説を映画化した『霧の旗』(65年、77年)では、一流の刑事弁護士が依頼を断った死刑囚の妹の桐子(65年版では倍賞智恵子、77年版では山口百恵)の「悪知恵」によってハメられてしまった(『名作映画から学ぶ裁判員制度』153頁参照)が、さて本作でドヒが見せる悪知恵とは?
 そんな事件の発生と同僚たちによるヨンハの逮捕は、ヨンナムが留置場に入っている間の出来事だから、ヨンナムには何事が起こったのかサッパリわからなかったのは当然だ。しかし、釈放されたヨンナムがドヒを訪れてみると・・・?本作ラストには大きな出来事は何も起きないが、チョン・ジュリ監督が本作の主人公として登場させた2人の女性の新しい生き方が暗示されるので、それに注目!もちろん、ここでも、その是非、善悪の判断は難しい。
  オリジナル作品に乏しい今の邦画では、本作のような面白い脚本は日本版としてのリメイクにピッタリ!それを是非期待したい。
                           2015(平成27)年6月2日記