洋15-62

「国際市場で逢いましょう」
    

                  2015(平成27)年5月18日鑑賞<シネ・リーブル梅田>

監督・脚本脚色:ユン・ジェギュン
ドクス(父との約束を果たすため、家族のために生きた男)/ファン・ジョンミン
ヨンジャ(ドクスの妻)/キム・ユンジン
ダルグ(ドクスの親友)/オ・ダルス
ドクスの父/チョン・ジニョン
ドクスの母/チャン・ヨンナム
コップン(“コップンの店”を営むドクスの叔母)/ラ・ミラン
クッスン(トラブルメーカーなドクスの妹)/キム・スルギ
ナム・ジン(ベトナム戦争に参戦した、実在する有名歌手)/ユンホ
2014年・韓国映画・127分
配給/CJ Entertainment Japan

<なぜ、本作が観客動員数歴代2位に?>
 私は長い間、ポン・ジュノ監督の『グエムル 漢江の怪物』(06年)(『シネマルーム11』220頁参照)が韓国映画の観客動員数歴代1位だと思っていたが、2014年になって俄然そこに変化が!2014年に観客動員数で歴代1位になったのは、キム・ハンミン監督の『鳴梁(ミョンリャン)』(14年)で、『アバター』(09年)(『シネマルーム24』10頁参照)を抜く、過去最高の成績を収めたらしい。もっとも、トコトン「抗日」の同作は日本では上映できていない。そして、2014年に観客動員数歴代2位になったのが本作。ユン・ジェギュン監督の1100万人を動員した『TSUNAMI―ツナミ―』(09年)が第10位に入っており、同監督は観客動員1000万人を超えた作品を2つ手がけた唯一の監督になったというから、すごい。本作がそんな「売れる映画」になったのはなぜ?
 本作のパンフレットによると、その秘訣を聞かれたユン・ジェギュン監督は、第1に運、第2に共感を挙げている。その上で、「私が『ALWAYS 三丁目の夕日』を観て共感したように、日本の方にも『国際市場で逢いましょう』に感情移入していただけると信じています。若い世代は親や祖父母の時代を思い出し、親の世代は自分たちが苦労した時代を思い出すのでは。親子で観て対話するきっかけになれば、と願っています」と語っているのは興味深い。やっぱり、そんな映画は日本でも韓国でも強いわけだ。

<さすが韓流俳優!2人とも青春時代から老け役まで!>
 本作冒頭は、現在の釜山で、2人並んで高台から海を見下ろす老人のドクス(ファン・ジョンミン)と妻ヨンジャ(キム・ユンジン)のシーンから始まる。ここでドクスは、「わしの夢は船長になることだった」と語ったが、それはヨンジャがはじめて聞く話。なぜ長年連れ添った仲なのに、今までそれを一言も語ってくれなかったの・・・?ドクス役を演じるファン・ジョンミンは1970年生まれ、ヨンジャ役を演じるキム・ユンジンは1973年生まれだから、冒頭からこんな役をやらせるのは少し可哀相だが、さすが韓流の達者な俳優はそんな「老け役」もうまく演じている。
 ドクスとヨンジャは、釜山の国際市場で古くから小さな露店「コップンの店」を営んでいた。長年の苦労の甲斐あって、2人は今やたくさんの家族や友人に囲まれて幸せに暮らしていたから、いつまでも「コップンの店」にこだわる必要はないはず。しかも、時代が変わり、都市再開発の波が押し寄せる中、当然のように「コップンの店」も立ち退きを迫られていたが、ドクスは断固これを拒否。なぜドクスがこれほどまでに「コップンの店」にこだわるの?本作のストーリーは、そこから始まっていくことに・・・。

<興南撤収作戦とは?そこで生まれた悲劇とは?>
 第2次世界大戦において、「史上最大の作戦」と呼ばれた「ノルマンディー上陸作戦」は有名だから誰でも知っているが、朝鮮半島を南北に二分することになった朝鮮戦争(1950年6月~53年7月)における、興南(フンナム)撤収作戦とは?それは、1950年12月の朝鮮戦争真っ只中の吹雪舞う興南波止場で、中国義勇軍の進攻が迫る中、韓国軍と国連軍によって行われた大規模な海上撤収作戦だが、私はこれを本作ではじめて知った。
 パンフレットにあるユン・ジェギュン監督のインタビューによれば、「興南撤収のシーンのロケ地候補として韓国の海岸をくまなく探したのですが、すべて現代的な建物があり、適した場所が見つかりませんでした。悩んだ末に避難民の姿は釜山の多大浦(タデポ)海水浴場で撮影し、陸地にカメラを向けるときは高さ3メートルほどのグリーンバックをコンテイナー4台に張りつけて撮りました」とのことだ。そこで迫真の演技を見せるのは、幼い弟妹を抱いて必死にビクトリー号に乗り込もうとする父(チョン・ジニョン)、母(チャン・ヨンナム)の姿と、妹のマクスンの手を必死で引っ張る子供時代のドクスの姿だ。
 両親は何とか船の中に移ったが、妹のマクスンを背中におぶってよじ登ろうとしていたドクスは、マクスンの手を離してしまったため、マクスンは海の中に消えていくことに。泣き叫ぶドクスに対して「ドクス、よく聞くんだ。今からはお前が家長だ。家族を守ってくれ!」と語った父は、マクスンを捜すため、1人船の下に降りていったが・・・。

<靴磨きとギブミーチョコレートの風景をどう見る?>
 1945年8月15日以降の、敗戦国日本、焼け野原となった日本で最も象徴的なのは闇市、そして靴磨きとギブミーチョコレートの風景だ。それは、古くは田村泰次郎の小説『肉体の門』(47年)(何度も映画化)、新しくは坂口安吾の小説『戦争と一人の女』(46年)(映画では『戦争と一人の女』(12年)(『シネマルーム30』199頁参照))等を観れば明らかだ。また、並木路子の大ヒット曲『リンゴの唄』(46年)や少女時代の美空ひばりの『悲しき口笛』(49年)や『東京キッド』(50年)を聞けば、そんな風景がくっきりと浮かんでくる。
 父と妹のマクスンを失ったまま、ドクスが母や弟妹の計4人で身を寄せたのは、国際市場で露店を経営する親切な叔母コップン(ラ・ミラン)の家。本作導入部に見る興南撤収作戦は、①北朝鮮からの怒涛の進撃、②マッカーサーの仁川上陸作戦による巻き返し、③中華人民共和国の義勇軍の参戦による再度の北からの進攻、という流れの中で、1950年12月に実施されたもの。ドクスの父は朝鮮北部の東海岸にある興南肥料工場の労務主任という設定だが、秋月望氏(明治学院大学国際学部教授)のコラム「『漢江の奇跡』前史」によれば、「興南の肥料工場は、植民地統治下の1927年、日本窒素が建設に着手してその後アジア有数の化学工場となった」らしい。興南には北進した韓国軍と国連軍が進駐していたが、興南からの撤退を決定した韓国軍と国連軍は、その港湾施設を徹底的に破壊した上で海路からの撤収を図ったわけだ。
 私も1996年に観光旅行に行ったことのある釜山は、魚の美味しい港町だった。朝鮮戦争の混乱期に臨時首都とされたそんな釜山に、戦火を逃れた多くの避難民が流れ込んできたのは当然。そんな歴史上の事実に照らせば、敗戦直後の日本の首都・東京の混乱風景と朝鮮戦争時の臨時首都・釜山の混乱風景とは意味が違うが、闇市とギブミーチョコレートの風景は全く同じだ。そして、そんな中でこそ子供は逞しく育つもの。1953年7月27日の休戦協定の調印によって朝鮮半島は南北に分断され、ドクスたちは「北」の故郷・興南に帰れなくなってしまったが、そんな中で逞しく成長していったドクスは・・・?

<本作に見る、「家長」としての生き方に注目!>
 核家族化と少子高齢化が進んだ日本では、「家長」という言葉は今や死語に近い。『ALWAYS 三丁目の夕日』(05年)(『シネマルーム9』258頁参照)と『ALWAYS 続・三丁目の夕日』(07年)(『シネマルーム16』285頁参照)は「昭和の良き時代」を見事に描いたが、そこでも家長の責任とか家長の生き方という概念は全く存在しなかった。日本では未だ「同性婚」や「事実婚」は認められていないが、それが認められれば、さらに「家長」という概念は死滅していくだろう。しかして、本作が描くドクスの家長としての責任とその生き方とは?
 本作中盤に描かれる、青年になったドクスの①西ドイツのハンボルン(現・デュースブルク)への鉱員派遣(1963年~66年)、②技術者としてベトナム戦争への参加(1974年~75年)を見れば、多くの日本人はビックリするはずだ。日本でもかつての満州国への移住やブラジルへの移住があったものの、一家の父として外貨を稼ぎ、家族を養うため外国に出稼ぎに出かけるという状況は生まれなかった。しかし、父親との最後の会話が「ドクス、よく聞くんだ。今からはお前が家長だ。家族を守ってくれ!」となり、母親からも「父さんが戻ってくるまでは、あんたが家長なんだから!」と言われ続けたドクスの、「家長」としての責任の果たし方とその生き方はすごい。そんな家長としてのドクスの奮闘ぶりを描く本作中盤のストーリーでは、共に奮闘する親友のダルグ(オ・ダルス)がいい味を出しているし、わがままいっぱいに育った妹クッスン(キム・スルギ)の「お兄ちゃん、お金いっぱい稼いで来た?」のセリフも、かわいい妹なればこそ許容範囲内・・・?
 本作が韓国で大ヒットした理由の一つは、ひょっとして韓国の若者たちが、ドクスの家長としての生き方に共感を覚えたため・・・?もしそうであればすごいことだが、日本の若者たちには到底理解することはできないのでは・・・?

<異国での異業種交流(?)と、そこで咲いた恋に拍手!>
 韓国人が西ドイツへ出稼ぎに出かけたのは、西ドイツでの仕事では高い収入が約束されていたためだが、その職種はドクスが行った炭鉱やヨンジャが行った看護師などに限定されていたらしい。炭鉱労働の過酷さは本作を観るまでもなく明らかだが、当時の看護師の仕事も患者の身体拭き等の雑務が中心で、過酷な労働環境だったらしい。
 明治15年にドイツに留学した森鷗外が書いた処女小説『舞姫』(1890年)における、ドイツで法学を学ぶ日本人留学生と踊り子エリスの悲恋物語は、森鷗外自身の体験をもとにしたもの。また、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』に描かれた、ロシア駐在武官で海軍士官の広瀬武夫とロシア人の美しき令嬢アリアズナ・アナトーリエヴナ・コワリスカヤとの恋も現実のもの。しかして、ドクスとヨンジャの恋模様は?
 外貨稼ぎのために西ドイツに出稼ぎに行った韓国人炭鉱労働者たちと韓国人看護師たちとの異業種交流(?)の様子と、そこで咲いたドクスとヨンジャとの恋模様に拍手。そこには、いかにも韓国映画らしいオーバーな表現が見られるものの、炭鉱事故で瀕死の状態となったドクスをめぐるヨンジャの奮闘ぶり等々を十分に楽しみたい。
 もっとも、「あなたも一緒に帰国しませんか?」というドクスの誘いに対するヨンジャの答えは「いいえ、私はここで頑張って暮らします」だった。そのため、ドクスは傷心のまま派遣鉱員の第1弾帰国団として帰国したが、その数か月後、ドクスの前に現れたヨンジャの重大発言とは・・・?

<ベトナム戦争に対する日韓のスタンスの違いは?>
 ドクスとヨンジャの結婚式がいわゆる「できちゃった婚」になったのは、ある意味微笑ましい。また、ドクスが必死に稼いで仕送りしたお金で、母親と弟妹たちは新しい一軒家に住んでいたから、西ドイツからの帰国後、ドクスたち一家は貧しいながらも幸せそのものだった。ところが、そこでわがまま娘となった妹のクッスンが結婚資金を要求。さらに、叔母コップンの死亡後、飲んだくれの叔父が「店を売っ払う」と言い始めたため、ドクスは再度外貨を稼ぐため、今度はベトナム戦争に技術者として赴くことに。ドクスは軍人ではなく技術者としての従事だが、そのストーリーの中には、レッキとした軍人として兵役に従事している人気歌手ナム・ジン(ユンホ)が奮闘する姿も描かれるのでそれにも注目!
 日本では、安倍晋三総理念願の新しい「安全保障関連法案」が去る5月14日に閣議決定され、平和安全法制整備法案や国際平和支援法案等が国会に提出され、その審議が始まっている。5月20日には安倍首相と民主党の岡田代表ら野党3党首による党首討論も行われた。1960年から1975年まで続いたベトナム戦争に対する当時の日韓のスタンスの違いを考えながら、その論戦を見守りたい。

<テレビの威力を実感!この感動に涙!>
 日本でも「先の大戦」終了後、大陸残留孤児の問題が発生した。その再会をめぐるドラマは、山崎豊子の『大地の子』(91年)等々で有名だが、朴正煕大統領の下で「漢江の奇跡」を成し遂げ、豊かになった韓国では、1983年夏、南北分断で生き別れになった離散家族を捜すテレビ番組が放送されていた。日本でも1995年1月17日の阪神・淡路大震災や2011年3月11日の東日本大震災の後にはテレビやラジオによる安否情報が活躍したが、本作に見るような離散家族を捜す大規模なテレビ番組は日本では考えられない。
 興南撤収の大混乱の中で生き別れになった父と妹を捜すためにこれに出演したドクスは、会場となったソウルの汝矣島広場で情報公開し報せを待っていたところ、何と父親らしい人が見つかったとの連絡が・・・。残念ながらこれは人違いだったが、その後ロサンゼルスからの中継によると、幼い頃に里子に出され、アメリカで育った女性が妹のマクスンではないか、との情報が・・・。テレビの前の女性は韓国語がしゃべれず、英語だけの懸命の訴えだが、今ならDNA鑑定をすればすぐわかる。しかし、この時に本人確認の決め手になったのは、①別れた時にマクスンが着ていた花と蝶の刺繍が入った服の袖と②左耳の奥にあるホクロだ。
 ちょっとできすぎの感もあるストーリー構成だが、それでも芸達者な韓流スターの熱演には驚かされる。ヨンジャのドクスに対する「生きる時も死ぬ時も、私とここにいて」のセリフや、ドクスのヨンジャに対する「泣くときは、絶対に一人では泣かないで。いつも側には、家族がいるから―」のセリフにも泣かされること必至だが、朝鮮戦争から30年、スクリーン上に見る劇的な奇跡の再会のシーンには、大粒の涙が溢れ出ることまちがいなしだ。
 本作のラストは再び現在の釜山。たくさんの家族が集まった家の中でドクスは今、1人父親に対して「父さん、家族を守れっていう約束は果たしたよ、マクスンも見つけた。十分に頑張っただろ。でも・・・・・・本当につらかった」と語りかけていた。そして、愛するヨンジャに対して、「もう店を売っていい」と告げた。ここまで頑張れば、ドクスが家長としての責任は十分果たしたことになるはずだ。
                                  2015(平成27)年5月21日記