洋15-153

「独裁者と小さな孫」
    

                  2015(平成27)年12月23日鑑賞<シネ・リーブル梅田>

監督・脚本:モフセン・マフマルバフ
大統領/ミシャ・ゴミアシュウィリ
大統領の5歳の孫/ダチ・オルウェラシュウィリ
売春婦/ラ・スキタシュヴィリ
歌手の政治犯/グシャ・ブルデュリ
理髪師/ズラ・ベガリシュヴィリ
護衛/ラシャ・ラミシュヴィリ
愛に生きる政治犯/ソソ・クヴェデリゼ
寛大な政治犯/ダト・ベシタイシュウィリ
2014年・ジョージア、フランス、イギリス、ドイツ映画・119分
配給/シンカ

<なじみの薄かった国々の秀作が次々と!本作は必見!>
 近時はくだらない邦画が増えるのに反比例するかのように、『チェイス!』(13年)(『シネマルーム35』120頁参照)、『ミルカ』(13年)(『シネマルーム35』241頁参照)、『女神は二度微笑む』(12年)(『シネマルーム35』127頁参照)、『めぐり逢わせのお弁当』(13年)(『シネマルーム33』45頁参照)等のインド映画の秀作はもちろん、アスガー・ファルハディ監督の『別離』(11年)(『シネマルーム28』68頁参照)等のイラン映画のすばらしさが目立っている。
 さらに、トルコ、フランス、ドイツ合作の『雪の轍』(14年)(『シネマルーム36』124頁参照)、イラク、トルコ合作の『サイの季節』(12年)(『シネマルーム36』85頁参照)、アルゼンチン、スペイン合作の『人生スイッチ』(14年)(『シネマルーム36』112頁参照)、イスラエル、ドイツ、ポーランド、ルクセンブルク、フランス、ベルギー合作の『コングレス未来学会議』(13年)(『シネマルーム36』222頁参照)等、これまでなじみの薄かった国々の秀作が次々と日本で公開されている。
 1957年にイランのテヘランで生まれた巨匠モフセン・マフマルバフ監督の『カンダハール』(01年)が公開されて世界を震撼させたのは2001年だが、残念ながら私はこれを見逃していた。そんな私にとって本作は必見!

<モフセン・マフマルバフ監督なればこその着想に注目!>
 映画監督の他にも、小説家、脚本家、編集者、プロデューサーそして人権活動家の肩書きをもつモフセン・マフマルバフはイラン政府によって作品の上映を禁じられ、長年にわたって身の安全を脅かされていたそうだ。そして、2005年に検閲の圧力に抗議してイランを離れて以来、ロンドンとパリを拠点に活動しているそうだ。パンフレットにあるモフセン・マフマルバフのインタビューで彼は、「もし今、イランに戻ったとしたら、殺されないにしても、一生、監獄生活を送ることになるでしょう。自国を離れてからのこの10年の間に、イラン政府に数回、2度はアフガニスタンで、2度はフランスで、暗殺されそうになりました。」と語っているから、平和で安心安全な日本とは大違いだ。
 本作では、何よりもそんな人生を歩んできたモフセン・マフマルバフ監督なればこその着想に注目!本作の脚本は何度も推敲が重ねられ、物語もそのたびに生まれ変わったが、元々のアイデアは、「8年ほど前、滞在中のアフガニスタンで廃墟と化したダルラマン宮殿からカブールの街を眺めている時に思いついたもの」らしい。そのアイデアとは、「例えばもし大統領が子供を抱きながら宮殿の大きな窓から“彼らの”街を眺め、遊びで街じゅうの明かりをつけたり消したりして絶対的な権力を示すことで、その子を楽しませようとしたら。そして不意に、その明かりが消えたままつかなくなってしまったら、どうなるだろうか」というものだ。しかして、本作冒頭には「某国」における絶対的権力者たる大統領(ミシャ・ゴミアシュウィリ)とその5歳の孫息子(ダチ・オルウェラシュウィリ)が登場し、この孫はホントに電話一本で街じゅうの電気をつけたり、消したりする「お遊び」を始めたが・・・。

<大統領からただの爺さんに!2人の逃避行の行方は?>
 戦後70年間も平和を享受してきた日本人は、島国の中にいることもあって独裁国家と言えば北朝鮮くらいしか思い浮かばない人が多い。しかし、イラン、イラク、アフガニスタン、トルコ、シリア、エジプト等の中東諸国では今なお独裁国家がいっぱい!本作の大統領がどこの国の大統領なのかは特定されていないが、独裁国家の恐ろしさと映画としての寓話性の面白さを両立させるためには、それはベストの手法だ。
 某国の大統領がいかに巨大な権力を握っているかは、冒頭の大統領と孫との語らいで一瞬に理解できる。もっとも、本作のストーリーはそんな大統領の独裁ぶりを誇示するものではなく、逆に「革命」の勃発によって宮殿を追われ、孫と2人で他国への脱出をはかる2人の逃避行を描くもの。しかし、そんな一種のロードムービー(?)の中で浮かび上がってくるのは、一面では孫をバカ可愛がりする優しい大統領が、他面では多くの罪なき国民を処刑してきた、いかに冷酷な大統領であるかということだ。
 2010年12月18日に始まったチュニジアのジャスミン革命以降、アラブ世界においては「アラブの春」と呼ばれる大規模な反政府デモを中心とした騒乱事件が発生し、エジプトやリビアでは「独裁政権打倒」「民主化」が実現した。本作導入部ではそれと全く同じことが某国で起こるのでそれに注目!そのため、家族だけを先に脱出させ、自分は宮殿に残ろうとしていた大統領は、孫連れで安全な地に逃れるべく、船の待つ海を目指す逃亡の旅に出ることに。こうなると、昨日までの大統領もただの爺さん。今なお「大統領!」と呼ぶ孫に対して、「これからは大統領と呼ぶな!」と諭したが、2人の命がけの逃避行にはさまざまな苦難の道が・・・。

<この爺さん意外としたたか!サバイバル能力に感心!>
 ロードムービーの王道はみずみずしい若者がひたむきに成長していく姿を描くもので、その代表作は若き日のチェ・ゲバラが23歳の医学生だった時の、オートバイによる南米の旅を描いた『モーターサイクル・ダイアリーズ』(04年)(『シネマルーム7』218頁参照)。他方、生き残りをかけた孤独なロードムービーもあり、その代表例はさしずめ世界滅亡が迫る中、ひたすら西を目指して歩く主人公を描いた『ザ・ウォーカー』(10年)(『シネマルーム24』76頁参照)。
 導入部にみる大統領の服装は、軍事独裁国家の元首らしい軍服姿だし、5歳の孫も一人前の軍服姿。孫が気に入っている遊び友達のマリアは美しく着飾って踊ることに夢中だが、孫は踊りも大好きだが、敬礼をしながらの閲兵行進も大好きらしい。そりゃ、ある事件で息子を失い、今は2人の娘しかいない大統領にとっては、この孫は宝に違いない。しかし、今や多額の懸賞金をかけられた指名手配の身となっては、何よりもそんな軍服は邪魔。一刻も早くそれを脱ぎ捨て、庶民の服装にしなければならないが、そのためにはどうすれば?また、東郷平八郎ばりの口ひげも大統領の威厳を保つためには不可欠だったが、今やこれも邪魔。しかして、それを剃ってもらうためにはどうすれば・・・?さらに、逃避行のために何よりも必要なのはカネ。「地獄の沙汰も金次第」とはよく言ったものだ。そんな状況下、この大統領は意外なしたたかさとサバイバル能力を見せるので、本作中盤はそれに注目!
 北朝鮮のリーダーたる金正恩も音楽は大好きだから、ギターくらいは弾けるのかもしれないが、本作に見る大統領のギターの腕前はプロ級。すると、踊りがプロ級(?)の孫と2人で旅芸人に扮すればカネを稼ぎながら逃避行を続けることは十分可能かも・・・。

<売春婦が意外なインパクトに!>
 逃避行が展開していく中で、大統領がひとまず目指したのは、ある売春婦の家だったことが明らかになる。これは孫を連れての逃避行は難しいと考えた大統領が、昔馴染みの売春婦に孫を預かってもらおうと考えたためだ。もちろん、大統領は再び権力の座に返り咲いた時には多額の謝礼をすると約束するのだが、売春婦として毎日のように兵士にサービスしても、ろくにカネも支払ってもらえていないこの売春婦の選択は?
 戦争はもちろん革命でも内乱でも、そのために命を賭けて動くものは死んでも本望だろうが、それに巻き込まれてさまざまな被害を受ける一般市民はたまったものではない。本作には、結婚式を挙げたばかりの新郎新婦が革命軍兵士たちの検問を受ける中、新婦が兵士たちに凌辱されるシークエンスが登場する。こんな場合、本来なら新郎が男として命をかけてそれを阻止するのが筋だが、さて現実は?
 この新婦についてモフセン・マフマルバフ監督は最悪のシチュエーションを描き出したが、大統領と売春婦との会話においても、かなり絶望的な状況が描き出されていく。あくまで本作は寓話だが、そんな悲惨な現実はあくまで現実としてしっかり受け止める必要がある。そして、そのインパクトはとてつもなく大きいものだ。

<遂に逮捕!大統領の処刑は?>
 貧しい床屋からボロボロの服を奪い、羊飼いを装ったり、また、可哀想な炭鉱婦の子供からギターを奪い、旅芸人のように振る舞ったり、さらに哀れな死体から赤いスカーフを奪い、孫を女の子に見せかけたり、さまざまな変装で素性を隠しながら海を目指した大統領と孫は、今その地にたどりついたから、亡命の成功は目の前に・・・。ところが、現実はそれほど甘くはない。後方からは大勢の群集が大統領を追いかけてきたから、万事休す。遂に大統領と孫は逮捕されることに。
 ここでの群集の意見は一致して「大統領に死を!」だが、さてその方法は?銃殺?絞首刑?それとも、なぶり殺し?さらに、大統領を殺る前に、まず孫を血祭りに?群集の意見がさまざまに分かれたのは当然だが、モフセン・マフマルバフ監督はここから「愛に生きる政治犯」(ソソ・クヴェデリゼ)と「寛大な政治犯」(ダト・ベシタイシュウィリ)という2人を登場させて、ラストに向けて大きな論点整理をするとともに大きな見せ場をつくっていくので、それに注目!その結果、ここからはそれまでのロードムービーとは全く異質の、哲学論争や神学論争にも似たクソ難しい論点に突入することに。

<2人の政治犯の意外な主張に注目!>
 大統領の目の前で孫の首を吊って、大統領への痛手をより大きくしようとの意見にまとまり、いざそれを実行しようとした時、そこに割って入ったのが「愛に生きる政治犯」。彼の主張は「子供に罪はないだろう。お前らだって独裁者の兵士として、大量虐殺に加担したじゃないか」というものだ。これはこれで「ごもっとも」な意見だから、それに対する有効な反論は難しそう。しかして、現場に立つ群集たちの意見の集約は?
 大統領にとっては、一難去ってまた一難。先に孫の首吊りを見せつけられる運命は免れたものの、大統領の首はまさに1789年のフランス革命におけるルイ16世やマリー・アントワネットと同じように、断頭台の露に消えようとしていた。
 ここでまたもや割って入ったのが「寛大な政治犯」だ。ここでの彼の主張は「なぜわからない!負の連鎖を止めないと同じことが繰り返される。独裁者を殺したあとは国民同士で争い合うだろう。」というものだ。この主張もごもっともだから有効な反論は難しいが、人間は必ずしも理性どおりに動く動物ではない。したがって多くの場合、現場では「寛大な政治犯」のような意見は無視され、群集の(強行な)意見がまかり通るものだ。ここでビックリするのは、「寛大な政治犯」が大統領の首に並べて自分の首を差し出したこと。「大統領の首に鉈を下ろすのなら、まず俺の首に下ろせ!」という主張をそのまま実践したものだが、一体どこの誰がこんな行動をとれるの?そう考えれば、ある意味こんな設定自体がナンセンスだが、本作はモフセン・マフマルバフ監督流の寓話だと考えれば、この論点設定はすごい。さあ、2つの首に向かって鉈は振り下ろされるのだろうか?この衝撃のラストは、あなた自身の目でしっかりと!

<ラストシーンの孫の踊りが大きな救いに・・・>
 『チャップリンの独裁者』(40年)はまちがいなく20世紀の映画の「ベスト10」に入る傑作だが、映画史上の語り草になっているのが、ラスト6分間の演説。本作に見る前述の「寛大な政治犯」の主張は、このヒンケルに扮した床屋チャールズの演説ほどの説得力はないが、その内容は共通するものになっている。チャールズの場合はラジオを通じて自分の恋人に語りかけることによって、結果的に全世界の人々に対するメッセージになったが、本作に見る「寛大な政治犯」の主張を聞いた群集たちの受け止め方とその行動は?
 他方、何とか首吊りの刑を免れた孫は今「愛に生きる政治犯」と共に海を見つめていたが、本作のラストには浜辺の上で孫が得意なダンスを踊るシーンが登場するので、それに注目!一方でおじいちゃんの首が切られようとしているのに、孫は浜辺でダンス?そんなバカな話はないだろうと思うのだが、このシーンこそモフセン・マフマルバフ監督が本作の寓話性に込めた最大のメッセージだ。もちろん、この一連のラストをどう解釈するかは、あなたの自由だが・・・。
                                  2015(平成27)年12月28日記