日15-152 (ショートコメント)

「さようなら」
    

                  2015(平成27)年12月23日鑑賞<シネ・リーブル梅田>

企画・監督・脚本:深田晃司
原作:平田オリザ『さようなら』
ターニャ(南アフリカから来た難民)/ブライアリー・ロング
敏志(ターニャの恋人)/新井浩文
レオナ(ターニャをサポートするアンドロイド)/ジェミノイドF
佐野(ターニャを気にかける一人暮らしの女)/村田牧子
山下(木田の恋人)/村上虹郎
木田(山下の恋人)/木引優子
ターニャの父/ジェローム・キルシャー
ターニャの母/イレーヌ・ジャコブ
2015年・日本映画・112分
配給/ファントム・フィルム

◆『歓待』(10年)はすごく面白い映画だった(『シネマルーム27』160頁参照)し、『ほとりの朔子』(13年)も絶品だった(『シネマルーム32』115頁参照)。それを監督した深田晃司が脚本も書き、監督した最新作は、何と人間と本物のアンドロイドが共演した問題作。これは、劇団・青年団を主催し、日本を代表する劇作家・平田オリザと、ロボット研究の世界的な第一人者である石黒浩(大阪大学教授・ATR石黒浩特別研究所客員所長)が共同で進める、人間とアンドロイドが舞台上で共演する画期的な演劇プロジェクトを映画用に膨らませて、深田晃司監督流に映画化したものだ。
 『キネマ旬報』12月上旬号でも、「『さようなら』監督・深田晃司が考える自作と演劇+平田オリザ×イレーヌ・ジャコブ」と題して8頁にわたって特集されているから、小さな作品ながら大きな話題を呼んでいるようだ。折しも、12月19日には『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(15年)が公開され、世間の話題はそれで持ちきりだが、私はあえて本作を先に鑑賞。しかし、予想に反して(いや、予想どおりと言うべきか?)劇場はガラガラ。こりゃ一体なぜ・・・?

◆日本の国土はどこも放射能に汚染されてしまったため、国民は海外を目指したが、諸外国は放射能に汚染された日本人の受け入れには慎重な態度を示した。そのため政府は「棄国」宣言をし、各国と連携して計画的避難体制を敷くことに。つまり、国民に優先順位をつけて、順番に避難を進めていくことになったわけだ。なるほど、そんな近未来の予想はたしかにありうるし、そんな設定のハリウッド映画も『ザ・ウォーカー』(10年)(『シネマルーム24』76頁参照)、『テイク・シェルター』(11年)(『シネマルーム28』174頁参照)等があった。また、『日本以外全部沈没』(06年)は、小松左京の原作『日本沈没』をパロディ化した映画だが、意外にシリアスで面白かった(『シネマルーム11』58頁参照)。
 2011年の3.11東日本大震災と原発事故による放射能汚染を、映画でどのように描き、問題提起するかは大切なテーマだが、それは極めて難しい。本作はそれを、在日外国人で10歳の時に両親に連れられて南アフリカから日本にやって来た難民の女性ターニャ(ブライアリー・ロング)と、病弱で学校にも満足に通えなかった幼いターニャのために父母(ジェローム・キルシャー、イレーヌ・ジャコブ)が買い与えたアンドロイドのレオナ(ジェミノイドF)との「対話劇」を中心に表現していく。そのアイデアと意欲は十分わかるのだが、私にはそんな世界観への違和感と共に、アンドロイドそのものへの違和感が・・・。

◆東日本大震災による被災地の復興まちづくりは土地区画整理事業を中心にかなり進んできたが、これはあくまで巨額のカネをつっこむことによるハードでの復興。それも大切だが、まちは人間が住むためのものだから、遠くに避難したまま被災者が戻ってこれないまちなら、いくら作っても無意味ということになる。したがって極端に言えば、「棄村」や「棄国」も一つの政策だが、これまで日本国民はそんな政策に乗っかったことはないから大変だ。こんな時、『日本以外全部沈没』は大いに参考になる事例だが・・・。
 しかし、人間は状況に応じて生きていくことができる動物。したがってターニャの恋人で結婚の約束までした敏志(新井浩文)が結局は家族で避難してしまう選択や、たまたまある日のドライブで知り合いになった若いカップル、山下(村上虹郎)と木田(木引優子)が連続する避難番号で同じ国に避難するべく、これから婚姻届を出しに行くという選択は当然。また、難民であるターニャの避難順位は当然下位だから避難をあきらめてしまっているのに対して、離婚歴があり、まちで一人暮らしの佐野(村田牧子)の、自分も順位が低いとわかっていながらターニャと一緒に番号の発表を見に行こうとする姿勢もよくわかる。ところが、その佐野は、ある日残された人々と限りある電力をもとに開催された町の盆踊りに参加し、久しぶりのイベントを楽しんだ後、櫓の炎に引き寄せられるように突然走り始め、炎のなかに消えてしまったからアレレ・・・。こりゃ一体なぜ?
 本作前半では、放射能に汚染された被災地ながら何とか最低限の補給で暮らしている人々の営みが意外にも美しい自然の中で描かれていく。そのため、ターニャとレオナとの「共同生活」と「対話劇」にも孤独感や悲壮感は少なかったが、敏志の避難、佐野の死亡以降はターニャとレオナの周りには急速に孤独感と死の様相が・・・。

◆アンドロイドは食料を食べる必要はないが、充電が必要だし、さまざまな保守点検や修理も当然必要。本作に登場するアンドロイドであるレオナは古いタイプで、今は足が動かないため車イスで生活しているという設定。そうすると、車イス自体の保守、点検、修理も必要になるはずだ。
 本作は全編を通じて静か。セリフも動きも少ないうえ、大きなストーリー展開もないから、どうしても眠気を催してくる。つまり、美しい自然を映し出すスクリーンだけでは私の眠気を阻止することはなかなかできないわけだ。そして、いよいよ動けなくなったターニャが裸のままソファに寝ころび、レオナに対して「私が眠るまで詩の朗読をしてくれ」と頼む状況になってくると、その静かさは一層深まってくる。レオナによる詩の朗読にどれくらいの時間かかるのかわからないが、そんな時間の経過の中、ソファで眠っていたはずのターニャの姿が突然大きく変わってしまったことに私はビックリ!パンフレットには、「レオナの詩が流れる中、時間は過ぎていく。すでにターニャは死んでいる。やがて幾年も季節は巡りターニャは風化し、骨だけになっている。その間もレオナは傍らで見守り続ける。」と書かれているが、スクリーン上ではそれは一瞬なのでビックリするのも当然だ。しかし、いくら何でもそりゃ・・・。

◆他方、一人生き残ったレオナの方は、その後いかに?アンドロイドの風化は人間の風化のスピードよりかなり遅いようだが、それでもラストに向けてレオナの風貌がかなり変化(老化)していることがわかる。そして、正直言ってそれは見ていてあまり気持ちの良いものではない。
 本作ラストは、そんなレオナがかつてターニャと歩いた道を一人で散歩するシーンになるが、ここではその車イスのスピードを見ているだけで死の予感がヒシヒシと伝わってくる。そして、「危ないよ、車は急に止まれない」。そんな標語を思い出した途端、レオナの車イスは転覆し、レオナは放り出されることに。その後もレオナは懸命に這っていくが、その目指す先はターニャが話していた竹の花のある場所だ。その竹の花は一斉に咲き誇っていたから、この美しく咲き誇る竹の花と、ターニャやレオナの死との対比は実にお見事。しかして、本作のテーマは「死を見つめて、生を想う」だが、さて・・・。
                                  2015(平成27)年12月25日記