洋15-132

「裁かれるは善人のみ」
    

                      2015(平成27)年11月8日鑑賞<テアトル梅田>

監督・脚本:アンドレイ・ズビャギンツェフ
コーリャ(ニコライ)・セルゲーエフ(自動車修理工)/アレクセイ・セレブリャコフ
リリア(コーリャの後妻)/エレナ・リャドワ
ディーマ(ドミトリー)・セレズニョフ(弁護士。コーリャの軍人時代の後輩)/ウラディミール・ヴドヴィチェンコフ
ヴァディム・シャレヴァト(市長)/ロマン・マディアノフ
ロマ(コーリャの息子)/セルゲイ・ポホダーエフ
パーシャ(バーヴェル)(警官。コーリャの友人)/アレクセイ・ロージン
アンジェラ(パーシャの妻)/アンナ・ウコロワ
2014年・ロシア映画・140分
配給/ビターズ・エンド

<このロシア人監督の壮大な発想力に拍手!>
 ロシアでは、『12人の怒れる男』(07年)(『シネマルーム21』215頁参照)や、『太陽に灼かれて』(94年)、『戦火のナージャ』(10年)(『シネマルーム26』110頁参照)、『遥かなる勝利へ』(11年)(『シネマルーム31』44頁参照)の「3部作」のニキータ・ミハルコフ監督が有名だが、第2作目の『ヴェラの祈り』(07年)ではじめてその存在を認識したアンドレイ・ズビャギンツェフ監督もすごい(『シネマルーム35』165頁参照)。第67回カンヌ国際映画祭の脚本賞をはじめ、アカデミー賞にあたるニカ賞(ロシア・アカデミー賞)の監督賞・主演女優賞・助演男優賞等多くの賞を受賞した、同監督の第4作目となる本作は何よりもその壮大な発想力がすごい。
 日本国憲法第29条は「①財産権は、これを侵してはならない。②財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。③私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」と規定した。そのため戦後の日本では、徳川時代のような、悪代官(権力)と結託した悪徳商人によるタダ同然の土地の召し上げはありえず、正当な補償が不可欠となったが、さて中国共産党が一党支配する中国では?また、同じく共産主義体制にあるソ連とその後のロシアでは?さらに、民主主義の権化とも言えるアメリカでは?
 パンフレットによれば、アンドレイ・ズビャギンツェフ監督が本作の着想を得たのは、第1に2004年6月4日にアメリカのコロラド州グランビーで起こったキルドーザー事件。これは、町による再開発に反対していた自動車修理工のマービン・ヒーメイヤーが工場の業務停止等のひどい仕打ちを受けたため、改造したブルドーザーで市役所、工場、新聞社、市長自宅などを破壊した末に内側から溶接されたブルドーザー内で自殺した事件。そして第2は1806年に刊行されたハインリヒ・フォン・クライストの小説『ミヒャエル・コールハースの運命』。その説明はパンフレットを読んでもらいたいが、そんな壮大な着想を得て「これはすごい映画になる」と確信したアンドレイ・ズビャギンツェフ監督は、話をロシアに置き換えて本作の脚本を。

<日本人にはなじみの薄い3つの前提事実をしっかりと!>
 本作は『裁かれるは善人のみ』という何とも刺激的(?)な邦題がつけられたが、英題は『LEVIATHAN』。私は大学の受験勉強のときに、1951年に刊行されたトマス・ホッブズの政治哲学書である『リヴァイアサン』のことを学んだ。ウィキペディアによれば、ホッブズは人間の自然状態を、決定的な能力差のない個人同士が互いに自然権を行使し合った結果としての「万人の万人に対する闘争」であるとし、この混乱状況を避け、共生・平和・正義のための自然法を達成するためには、「人間が天賦の権利として持ちうる自然権を国家(コモンウェルス)に対して全部譲渡(と言う社会契約を)するべきである。」と述べ、社会契約論を用いて従来の王権神授説に代わる絶対王政を合理化する理論を構築した、とされている。このように、「国家」は本来人間を守るために作られた社会関係システムだったはずだが、さて現実は?
 本作の舞台は、入り江のある小さな町としか特定されていないが、主人公コーリャ・セルゲーエフ(アレクセイ・セレブリャコフ)たちの営みの「絶望性」を象徴するかのように、本作には朽ち果てた船や浜に打ちあげられたクジラの骨の姿が再三登場する。キリスト教に縁の薄い日本人の多くは、旧約聖書に収められたヨブ記も、旧約聖書に登場する海の怪物レビヤタン(リヴァイアサン)も知らないだろうが、本作を理解するためには、その理解が不可欠だ。
 本作のチラシには、『裁かれるは善人のみ』を読み解く4本の映画として、①『父、帰る』(03年)、②『HANA-BI』(98年)、③『殺人の追憶』(03年)(『シネマルーム4』240頁参照)、④『それでも夜は明ける』(13年)(『シネマルーム32』10頁参照)が挙げられている。これらの映画と共通する本作のテーマは深く入り込めばキリがないが、少なくともそれらのエッセンスだけは「前提事実」として、しっかり理解しておきたい。

<興味深い収用裁判の判決風景とその内容は?>
 映画の冒頭に示される、自動車修理工コーリャと美しいその後妻リリア(エレナ・リャドワ)そして先妻の子で何かとリリアに心を開かず口答えばかりしている一人息子ロマ(セルゲイ・ポホダーエフ)が住んでいる家と土地は、なぜこんな土地をヴァディム・シャレヴァト市長(ロマン・マディアノフ)が必死になって収用しようとしているのかわからないほど、辺鄙な田舎の入り江にある。都市問題をライフワークとする私は、道路のために土地を収用される住民側の代理人として収用委員会に対し収用裁決の申立てをしたことが数回あるが、その結果はすべて大成功。日本では権利の上に眠らず、労苦を厭わないで法的に異議を申し立てれば、それ相応の成果が出ることが多いわけだ。
 しかし、ロシアの片田舎で、地方政府を被告とした収用の訴訟ではそうはいかないらしい。3人の裁判官(そろいもそろって3人とも女性判事)のうち、裁判長らしき女性は口頭でしかもバカ早いスピードで判決文を読んでいたから、これがロシアのホントの判決言渡し風景だとしたら興味深いが、反面バカバカしい儀式にすぎない。その内容は、コーリャが求めた350万ルーブルには遠く及ばない64万ルーブルだったから、要するにコーリャは完全敗訴したわけだ。そんな中、コーリャがモスクワから招いた弁護士ディーマ・セレズニョフ(ウラディミール・ヴドヴィチェンコフ)は「市長の悪事の証拠をつかんでおり、これを使って巧妙に攻めれば勝てる」というから心強い。ディーマはコーリャの軍人時代の後輩だが、モスクワ弁護士会ではかなりの有力者らしいことがその自信の表情からはもとより、その情報量と人脈の広さからも読み取ることができる。
 もっとも、11月6日に観た『黄金のアデーレ 名画の帰還』(15年)と同じく、ここでも依頼者コーリャと訴訟代理人弁護士ディーマとの間で委任契約書は作られていないから、着手金、報酬額はもとより、こんな片田舎での長期滞在の費用もわからない。したがって、その点はいずれ問題になるのでは・・・?そんな心配をしていたが、本作ではそんな日本的な心配をはるかに通り越す大問題がディーマに発生することに・・・。

<ディーマのやり方は大成功!一瞬そう思ったが・・・>
 訴訟事件の依頼を受けた弁護士が法廷で全力を尽くすのは当然だが、社会的な注目を集める事件では、マスコミの活用、住民運動の展開その他、相手方にさまざまな圧力をかけることによって有利な和解を勝ち取るという視点も必要。しかし、あまりにそれを徹底させ、相手の弱みにつけこんで脅迫めいた行動をとれば、それは違法行為になるのは当然だ。しかして、堂々と市長に面会を求め、2人だけで市長と対峙したディーマがポンと投げ出したファイルの中には一体どんな情報が・・・?そこでの交渉のやり方は、さすがモスクワ弁護士会で鍛えた優秀な弁護士だと思わせるが、ヴァディム市長が過去に犯した悪事の数々を示す証拠がそこに集約されているとしても、それをネタに350万リーブルという収用の対価を支払う約束をさせるのはいかがなもの・・・。
 ディーマが去った後、ヴァディム市長が市長室に呼び寄せたのは、何と自分の意のままに動く判事と検察官と警察官。彼らの権力の源泉は地方政府のボスたるヴァディム市長だから、その市長の命令は絶対!「もし、1年後の選挙で俺が負ければ、お前たちの地位もなくなるぞ」と脅されれば、モスクワからやってきたたった一人の弁護士を脅したり、痛めつけたり、その他屈服させる方法はいくらでも・・・?
 賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の『長江哀歌(ちょうこうエレジー)』(06年)(『シネマルーム15』187頁参照)や『四川のうた(二十四城記/24CITY』(08年)(『シネマルーム22』213頁参照)、そして馮艶(フォン・イェン)監督の『長江にいきる 秉愛(ビンアイ)の物語(秉愛)』(08年)(『シネマルーム22』206頁参照)では、土地収用をめぐる中国の問題点が描かれていたが、アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の手による脚本では、ロシアでは本作のようなスリリングな展開に・・・。

<ロシアの片田舎での誕生日の祝い方は?>
 本作の登場人物は少ないが、コーリャと家族ぐるみの付き合いをしている隣人で交通警官をしているパーシャ(バーヴェル)(アレクセイ・ロージン)とその妻アンジェラ(アンナ・ウコロワ)はストーリー進行上大きな役割を果たすので、脇役ながらその存在に注目!本作中盤には、そのパーシャの誕生日を祝うため、両家の家族の他ディーマ弁護士も参加して車を連ねて鉄砲撃ちと野外での食事を楽しむシークエンスが登場する。アメリカの西部劇でも空きビンを並べた標的で銃の腕前を競うシーンをよく見るが、ロシアでもそれは同じらしい。もっとも、それは一発ずつ標的を狙うところに意味があるから、マシンガンで片っ端から撃ってしまっては元も子もなくなってしまうことに・・・。
 ちなみに、そこでパーシャが示した次なるアイデアは、ソ連の歴代の政治指導者レーニン、プレジネフ、ゴルバチョフなどの肖像写真を「より良い標的」にして撃とうということだが、ロシアでそんなことが許されるの?ちなみに、「変貌するロシア伝統映画」と題する産経新聞2015年10月27日の評論では、ロシア文学の研究者でロシア映画に詳しい京都大学大学院の中村唯史教授は、「果たして現代のロシア映画人は自由に権力批判できる体制を手に入れたのか?」との質問に対して、「テレビドラマでも見られますが、地方権力だから批判できるのです」と答えているから、なるほど なるほど・・・。
 それはともかく、そんな楽しい誕生日パーティー(?)も、途中からリリアの姿とディーマの姿が相次いで見えなくなったから大変。そこからは、平和と自由そして民主主義を謳歌する私たち日本人には想像すらできない、海の怪物レビヤタンが暴れているとしか思えない事態が次々と展開していくことに・・・。

<不倫?駆け落ち?いやいや現実はそれ以上の悲劇に!>
 韓国のキム・ギドク監督作品はいずれも人間の本性をトコトンあぶり出している。また、中国の王兵(ワン・ビン)監督のドキュメンタリー映画①『三姉妹~雲南の子(三姉妹/Three Sisters)』(12年)(『シネマルーム30』184頁参照)、②『無言歌(夾辺溝/THE DITCH)』(10年)(『シネマルーム28』77頁参照)、③『収容病棟 (瘋愛/'TIL MADNESS DO US PART)前編』(13年)(『シネマルーム34』285頁参照)は、中国社会の悲惨さをこれでもかこれでもかとトコトン描いている。
 コーリャにしてみれば、自分が信頼し依頼している弁護士のディーマが妻のリリアとイチャイチャしていれば腹が立つのは当然。その結果、あのパーシャの誕生パーティーの中でディーマが多少のケガをしたとしても自業自得だが、そんなトラブルの中で酒に酔ったコーリャが警察に拘束されてしまうと、その間に何とリリアとディーマは・・・?
 他方、判事、検察官、警察官という地方政府のすべての権力を使ったヴァディム市長は、ある日ディーマと面会の約束を取り付けると、まさに海の怪物レビヤタンばりのある卑劣な行動を・・・。その結果、以降ディーマのスクリーンへの登場は一切なくなってしまうことに・・・。そして、やっと釈放されたコーリャは、ディーマが突然消えてしまったことにも困惑したが、ある日突然リリアもいなくなったため、こりゃきっと2人は「不倫の駆け落ち」と分析したが、いやいや現実はそれ以上の悲劇に!

<二度目の判決は、一度目よりもっと絶望的!>
 ディーマ弁護士の後を追うかのように、突然リリアの姿が消えてしまったから、コーリャがこれを「モスクワへの駆け落ち」と勘ぐったのは仕方ないが、ある日リリアの死体が海辺に打ち上げられると・・・。あの誕生パーティーのいざこざの中、コーリャは激情のままにディーマを殴りつけ、リリアに対しては「殺してやる!」と怒鳴ったのは事実。それは隣人のパーシャとアンジェラも聞いていたから、警察の事情聴取でそう証言したのは仕方ない。しかし、ロシアではそれだけでコーリャは殺人罪に・・・?
 コーリャがリリアを断崖から突き落とすのを目撃した証人でもいれば別だが、日本ではそんな殺人罪の立件は到底ムリ。しかし、ロシアではコーリャはそれで懲役15年という有罪の1審判決を受けたばかりか、二度目の判決言渡しシーンでは控訴審であの3人の女性裁判官たちが登場し、真ん中の裁判長が早口で控訴棄却の理由を読んでいたから、何ともひどいものだ。
 キルドーザー事件ではヒーメイヤーは内側から溶接されたブルドーザー内で自殺したそうだが、本作のラストに向けては、コーリャの家が巨大なブルドーザーで潰される風景が家の内部にセットしたカメラから映し出されるから、その迫力はすごい。一度目の雀の涙ほどの補償金で収用を認めてしまう判決もひどかったが、コーリャに対して懲役15年の有罪判決を確定させる二度目の判決言渡しは、一度目よりもっと絶望的!

<教会批判もここまでハッキリと!>
 キリシタン禁止令が出された日本でのキリスト教徒の弾圧はすごかったが、世界史的に見れば、西欧諸国がイエス=キリストの名の下に侵略戦争や植民地支配を実行し、異教徒だけではなく多くの他国民を苦しめたことは明らかだ。しかして、ディーマ弁護士から恐喝まがいの行動を受けたヴァディム市長は、判事、検察官、警察官のボスに対しては完全に「上から目線」で怒鳴りつけ、具体的な対処を命じたが、教会を牛耳る司祭に対しては一転して弱気。それは一体なぜ?権力と教会が一体となって政治腐敗を生むのは世の常だが、そんな場合やっぱり権力よりも教会の方が力が強いの・・・?外見上は偉そうだが、内心はえらく小心なヴァディム市長にしてみれば、ディーマ弁護士から暴露されかけた悪事について司祭に相談し、できれば一肌脱いでもらいたいと願ったわけだが、それに対して司祭は「懺悔でないのならば何も知りたくはない」とピシャリ。司祭や教会はそういう世俗のモメ事を超越した存在というわけだ。
 しかして、本作のラストはブルドーザーで完全に取り壊されてしまったコーリャの家の近くに建てられた壮麗な教会で、多くの参列者を前に司祭が高尚な教えをたれるシーンとなる。ヴァディム市長が自らの権力を最大限活用してコーリャから収用した土地にこの教会を建てたのは1つの社会的役割だが、日本の悪代官と同じように、彼は個人的な利得は別にしっかり確保しているはずだ。本作ではそこまで描かれないが、妻子を伴ってその式典に出席し、幸せそうな表情を見せているヴァディム市長の顔を見ると、「すべてが大成功!」とほくそ笑んでいることがよくわかる。
 それに対して、本作の重要な登場人物であったディーマ弁護士もコーリャの妻リリアも今はスクリーン上に登場せず、主人公だったコーリャも今はどこかの刑務所に・・・?ヨブ記におけるヨブは「これほどの不幸になるとは神に背いたに違いない」と友人たちから言われながらも、最後には信仰を取り戻し、神から祝福され長寿をまっとうしたが、本作ではコーリャが「どこに神はいるのか!」と叫ぶ姿が強烈だ。よくぞここまで教会批判ができたものだと感心すると共に、エンドロールが流れ始めると全身にどっと疲れが・・・。
                                  2015(平成27)年11月12日記