洋15-119

「ラスト ナイツ」
    

                    2015(平成27)年10月22日鑑賞<ギャガ試写室>

監督:紀里谷和明
脚本:マイケル・コニーヴェス
ライデン(バルトーク卿の忠実な家臣。騎士団の隊長)/クライヴ・オーウェン
バルトーク卿(封建国家の領主)/モーガン・フリーマン
コルテス副官(ライデンの副官)/クリフ・カーティス
ギザ・モット(悪徳大臣)/アクセル・へニー
皇帝/ペイマン・モアディ
ナオミ/アイェレット・ゾラ―
マリア(バルトーク卿の妻)/ショーレ・アグダシュルー
リリー(バルトーク卿の娘)/ローズ・カトン
イトー(ギザ・モットの護衛官)/伊原剛志
オーガスト(皇帝の良識派の重臣)/アン・ソンギ
ハンナ(オーガストの娘、ギザ・モットの妻)/パク・シヨン
2015年・アメリカ映画・115分
配給/KIRIYA PICTUERS、ギャガ

<『ラスト ナイツ』のナイツとは>
 『ラスト〇〇』という映画のタイトルはたくさんある。すぐに思いつくのは、トムクルーズと渡辺謙が共演した『ラスト・サムライ』(03年)(『シネマルーム3』137頁参照)だが、ジャッキーチェンが主演した『ラスト・ソルジャー(大兵少将)』(10年)(『シネマルーム25』100頁参照)も面白かった。また、私が観たそういうタイトルの映画だけでも、『ラスト・キャッスル』(02年)(『シネマルーム2』228頁参照)、『ラストキング・オブ・スコットランド』(06年)(『シネマルーム14』106頁参照)、『ラストゲーム 最後の早慶戦』(08年)(『シネマルーム20』285頁参照)、『ラスト、コーション(色、戒/LAST,CAUTION)』(07年)(『シネマルーム17』226頁参照)、『ラスト・ブラッド(Blood The Last Vampire)』(09年)(『シネマルーム34』197頁参照)、『ラストラブ』(07年)(『シネマルーム15』123頁参照)がある。これらはいずれもタイトルだけでその意味がわかるが、本作の『ラスト ナイツ』の「ナイツ」とは?
 本作の原題は『LAST KNIGHTS』だから、その英語を見れば、「ナイツ」=「KNIGHTS」=「騎士たち」ということがわかるが、片仮名のナイツだけでは、ブロードウェイミュージカルの代表作『ウエストサイド物語』(61年)でナタリー・ウッドとリチャード・ベイマーが歌った名曲「Tonight」の「night」=「夜」とまちがえる人もいるのでは?
 本作は15歳の時に単身渡米してさまざまな勉強と実績を積み重ねた後、『CASSHERN』(04年)と『GOEMON』(08年)(『シネマルーム23』179頁参照)で大きな話題を呼んだ紀里谷和明監督のハリウッドデビュー作。そんな前提を考えれば、本作のタイトルは片仮名の『ラスト ナイツ』とせず、原題どおり、英語の『LAST KNIGHTS』の方が良かったのでは?

<『忠臣蔵』の物語は、世界共通!>
 シェイクスピアの名作『マクベス』や『リア王』は世界共通の物語。黒澤明監督はそれらを『蜘蛛巣城』(57年)や『乱』(85年)というタイトルで、日本映画とし大ヒットさせた。また、黒澤明監督の代表作である『七人の侍』(54年)をハリウッド版で映画化したのが『荒野の7人』(60年)であり、逆にハリウッドで大ヒットしたクリント・イーストウッドが監督し主演した『許されざる者』(92年)を渡辺謙主演の日本版『許されざる者』(13年)(『シネマルーム31』88頁参照)にしたのが、李相日監督だ。
 しかして、シェイクピアのケースとは逆に、カナダ人のマイケル・コニーヴェスが日本の古典的な物語である『忠臣蔵』を題材として書いた脚本が、本作のもとになった心震える騎士たちの物語だったらしい。それを読んで「内なる声がシンプルに呼びかける脚本でした。『これは正しいのか、それとも間違っているのか?』と。その答えは、民族や宗教、国籍や出自にかかわらず、誰もが知っているものだと確信しました」と語る紀里谷監督は、その脚本を世界に向けて映画化することを決意し、5年の歳月をかけて本作を完成させたわけだ。

<キーワードは忠誠心、名誉、正義、尊厳!>
 日本には武士道があり、中世ヨーロッパには騎士道があったが、その内容や異同を論じるのは難しい。しかし、忠誠心、名誉、正義、尊厳という4つのキーワードは両者に共通するはずだ。もっとも、この4つのキーワードも、武士道と騎士道とではその内容には異同があるから、それをしっかり考える必要がある。
 歴史上の特定の人物や特定の事件を題材としながら、それを抽象化してしまい、時代や舞台をまるでわからない架空の世界に設定するのは映画的によくある手法だが、紀里谷監督は本作でそれをトコトン徹底させている。したがって、本作が描く忠誠心、名誉、正義、尊厳という4つのキーワードは、中世ヨーロッパの騎士道におけるそれとも異同があるはずだから、本作を鑑賞するについては、さらにその点にも注目!
 忠臣蔵の物語は、日本人には映画『忠臣蔵』(58年)や1964年のNHKの大河ドラマ『赤穂浪士』等々でお馴染みだが、さて、ハリウッド映画『ラスト ナイツ』で描かれる忠誠心、名誉、正義、尊厳をキーワードとした騎士たちの物語とは?

<物語の発端は?>
 平和を謳歌していた元禄時代に、何とも生臭い「主君のあだ討ち事件」が勃発!それが『忠臣蔵』だが、その物語の発端になったのは、浅野内匠頭という純真(単純?)で若いお殿サマが、知識は豊富だが欲深く老獪な吉良上野介の「接待」に失敗し、コトもあろうに殿中で刃傷ザタに及んだ「松の廊下刃傷事件」。
 これはどちらかというとハプニング的な事件だが、本作に見る、とある封建領主バルトーク卿(モーガン・フリーマン)が、大臣であるギザ・モット(アクセル・へニー)から露骨に要求された賄賂を断固拒否したのは、明らかな確信犯だ。皇帝(ペイマン・モアディ)から大臣に任命され、その権勢を誇っているギザ・モットが賄賂を要求しているのは公然の秘密だから、バルトーク卿も渋々ながらそれに従うしかないのでは・・・。それが普通の封建領主の判断だが、今バルトーク卿がそれを断固拒否すると決めたことが、本作の悲劇的な(?)物語の発端に・・・。

<この封建領主の決断の是非は?>
 『忠臣蔵』における浅野内匠頭は忠誠心、名誉、正義、尊厳の権化たるお殿様ではないが、本作におけるバルトーク卿は最初から忠誠心、名誉、正義、尊厳の権化たる封建領主として描かれている。また、『忠臣蔵』における大石内蔵助も藩の政(まつりごと)を補佐する家老だから、これも特に忠誠心、名誉、正義、尊厳の権化たる侍ではない。しかし、バルトーク卿から自分亡き後の「跡継ぎ」にまで指名された騎士団のリーダーであるライデン(クライヴ・オーウェン)は、最初から忠誠心、名誉、正義、尊厳の権化たる騎士として描かれている。
 もっとも、自分の病気のこともあって所詮自分の寿命が短いと悟っているバルトーク卿は、今なればこそギザ・モットからの賄賂要求を断固拒否し、皇帝が治めるこの国を良き方向に正そうとする決意を示すのに対し、ライデンの方はしっかり現実を見据え、多少の我慢や妥協はやむをえないのではないかとバルトーク卿にアドバイスするところが面白い。
 それにしても、ギザ・モットからの「上洛要求」に応じて都への長い旅を続け、やっとギザ・モットに面会したところで、そのお土産が薄い衣1枚というのではギザ・モットが怒ったのは当然。しかも、ギザ・モットに対して真正面から「国家を蝕むガン」と言い切ったことに対してギザ・モットから暴力行為を受けると、バルトーク卿は敢然と刀を抜いて対抗したから、それをギザ・モットの護衛官たるイトー(伊原剛志)が阻止したのは当然。しかして、「反逆罪」として告発されたバルトーク卿に対して、皇帝が下したお裁きとは?

<正義を貫いたことの犠牲の大きさに唖然!>

 本作導入部の見どころは、バルトーク卿に対して宣告された死刑をライデンが自らの刀によって執行するシーンとなる。忠臣蔵では浅野内匠頭には日本式の「切腹」が命じられたから、大石内蔵助が直接手を下すことはなかったから、本作が見せるそのシーンは忠臣蔵以上に残酷だ。しかも、本作では「私にはできません」と頑なに拒絶するライデンに対してバルトーク卿が「(騎士としての)使命を果たすのだ」と命令したことによって、断腸の思いでライデンがそれに従うことになるから、ある意味で騎士道は武士道より残酷かも・・・?
 さらに、『忠臣蔵』では浅野家はお取りつぶしになったものの、内匠頭の妻たちはそれなりの待遇を受けていたが、本作に見るバルトーク卿の妻マリア(ショーレ・アグダシュルー)、バルトーク卿の娘リリー(ローズ・カトン)の悲惨さは日本人の想像を絶するものがある。さらに領地を没収されたうえ、城には火が放たれ主君を失ったライデンの騎士団は解散を余儀なくされ、由緒あるバルトーク家は消滅してしまったから、バルトーク卿が正義を貫いたことの犠牲の大きさに唖然。
 ギザ・モットに対してあんな態度に出れば、こんな結果になることはわかっていたはずなのに、なぜバルトーク卿はあんな行動を・・・?そんな風に後悔したのでは本作後半のストーリーは成立しないが、やはり時代状況や人間関係は少なくとも(一時的に)「長い物には巻かれろ」という処世術も必要なのでは・・・?

<世を忍ぶ仮の姿の見事さはライデンも内蔵助も同じ!>
 それから1年後。導入部ではメチャかっこ良かったライデンが、酒に溺れ、女に手を出し、挙げ句の果てはバルトーク卿からいただいた刀まで売り払ってしまう姿が登場する。酒と女に遊びほうけるのは大石内蔵助も同じだったが、元禄時代の何となく情緒のある遊び方に比べ、本作の場合はそれらがすべて生々しい(?)から、ライデンの落ちぶれ具合はよりハッキリしている。
 ライデンたち騎士団からの復讐を警戒しているギザ・モットは、吉良上野介が大勢の浪人を雇い、屋敷の警戒を厳重にしたのと同じようにしていたが、そのレベルも忠臣蔵以上に徹底している。さらに徹底しているのは、ギザ・モットが信頼する護衛官のイトーにライデンを見張らせ、ライデンの行動がギザ・モットを油断させるための“世を忍ぶ仮の姿”ではないかということをチェックさせたこと。主君からいただいた刀を売り払ってもなお信用していなかったギザ・モットも、今は売春婦に身を落している主君の娘リリーをライデンが買う状況になっても、ライデンには何の変化もなかったと聞くと、さすがに安心したが、さて・・・。
 他方、本作中盤ではライデンの忠実な副官コルテス(クリフ・カーティス)を中心とする元騎士団のメンバーたちが、今は刀を捨て平民として働いているものの、それぞれの分野で「作戦」を練っている姿がチラホラ描かれるから、そんな彼らにライデンが合流するのはいつ・・・?ライデンも大石内蔵助も、“世を忍ぶ仮の姿”の見事さは同じだということを、本作を観て痛感!

<紀里谷監督の映像美と見事なアクションをタップリと!>
 時代も舞台も不特定な本作の撮影の大半は、チェコ国内のさまざまなロケーションで行われたらしい。『忠臣蔵』では吉良屋敷の図面の入手を巡る大石の部下たちの諜報活動が面白かったが、それは本作も同じだ。もっとも、本作ではそれらを1つ1つの独立した物語とせず、今や難攻不落の要塞と化したギザ・モットの城を、ライデンとコルテス副官を中心とした騎士団が襲撃するクライマックスのシークエンスに集約しているから、それをタップリと楽しみたい。
 本作はハリウッド映画だが、色の鮮やかさや明るさが目立つエンタメ色を重視したハリウッド映画とは異なり、白黒を貴重とした重厚な紀里谷監督特有の映像美と、日本刀での斬り合いをイメージした刀アクションの見事さが際立っている。もっとも、その規模の大きさは忠臣蔵における吉良屋敷への討ち入りを大きく上回るものであるうえ、大石内蔵助が打ち鳴らす山鹿流の陣太鼓は登場せず、あくまで密行性を重視した作戦となっている。そして、クライマックス中のクライマックスは、城兵たちを一掃した後のライデンとイトーとの一騎打ち。これに勝利すれば、後は部屋の中にとじこもるギザ・モットの首をはねるだけだからそのシーンは見モノだが、そこでライデンが勝利できたのは、刀の腕前というよりは刀の性能によるもの・・・?やはり、バルトーク卿がライデンに授けた見事な刀は、伊達ではなかったということだ。
 それはともかく、本作ラストに見る見事なアクションは「四十七士の吉良邸討ち入りシーン」よりよほどスリルとサスペンスに富んでいるから、その醍醐味をタップリと。
                                  2015(平成27)年10月26日記