洋15-109

「あの日のように抱きしめて」
    

                      2015(平成27)年9月3日鑑賞<テアトル梅田>

監督・脚本:クリスティアン・ペッツォルト
原作:ユベール・モンテイエ『帰らざる肉体』(早川書房刊)
ネリー・レンツ(アウシュヴィッツから生還した元声楽家)/ニーナ・ホス
ジョニー・レンツ(ネリーの元夫のピアニスト)/ロナルト・ツェアフェルト
レネ・ヴィンター(ネリーの親友の女性)/ニーナ・クンツェンドルフ
医師/ミヒャエル・メルテンス
家政婦/イモゲン・コッゲ
2014年・ドイツ映画・98分
配給/アルバトロス・フィルム

<『東ベルリンから来た女』と違い、邦題はちょっと甘すぎ・・・?>
 本作は、1960年生まれのドイツ人監督クリスティアン・ペッツォルトによる『東ベルリンから来た女』(12年)(『シネマルーム30』96頁参照)に続く作品。『東ベルリンから来た女』は東ドイツ政府に監視されながらも凛として生きる女性医師の姿を描いて第62回ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)を受賞したが、悪名高きアウシュヴィッツ強制収容所で死んだはずの女が奇跡の生還を果たしたことによって、元夫との間で展開されるフィルム・ノワールたる本作は、さて・・・?
 『東ベルリンから来た女』は、そのタイトルだけで東西に分裂されたドイツの厳しい現実とその中で生きるヒロイン(女医)の厳しい生きザマを想像することができた。それと同じように本作も、大ケガを負った顔の再建(復元?)手術を受けたアウシュヴィッツ帰りの女ネリー・レンツ(ニーナ・ホス)が、やっとの思いで元夫ジョニー・レンツ(ロナルト・ツェアフェルト)を訪ね、やっと再会できたにもかかわらず、妻は死んだと思い込んでいるジョニーはネリーの顔を識別できないという、何とも重い現実をテーマとしたものだ。本作冒頭の、ネリーが親友の女性レネ・ヴィンター(ニーナ・クンツェンドルフ)の運転する車で、ドイツ兵の検問を受けるシーンを観ただけで、ネリーの顔のキズの酷さが想像でき、思わず目をそむけたくなってくる。
 本作の原題『Phoenix』はピアニストの夫が働いている米兵向けのバーの名前だから、本作のストーリー展開とかなり直結している。しかし、前述した本作のテーマの重さを考えると、『あの日のように抱きしめて』という邦題は、その意味はわかるものの、ちょっと甘すぎ・・・?

<原作は?整形した顔の識別は?>
 パンフレットの中にある「解説」には、「ペッツォルトは、アルフレッド・ヒッチコックの名作『めまい』(58)に触発され、フランスのミステリー作家ユベール・モンテイエの小説『帰らざる肉体』(J・リー・トンプソン監督の1965年の映画『死刑台への招待』の原作でもあります)を下敷きに、惜しくも2014年に死去した先輩監督・脚本家ハルン・ファロッキの協力を得て脚本を書き上げました。」と書かれている。
 私は小説『帰らざる肉体』は知らないし、映画『死刑台への招待』も観ていないが、『めまい』は私を含め多くの映画ファンが知っているはずだ。『めまい』の後半では、死の淵から甦った女性と、かつて恋仲だった男性との奇妙な関係性が物語の核になっていたが、本作を観て一瞬違和感を覚えるのは、いくら整形(再建?復元?)手術を受けたとしても、かつて長年生活を共にした妻の顔くらいは識別できるのでは?ということ。最初は「妻とよく似た女だナア」と思っただけだとしても、その女を利用して「ある計画」を実行するため、エスターと名乗る女を、死亡したはずの妻ネリーのそっくりさんに仕立てあげていく過程で、すぐにわかるのでは・・・?
 そして、多分真実はそうだったのだろう。そうだからこそ、本作は藤山直美が主演した『顔』(00年)や、高岡早紀が主演した『モンスター』(13年)(『シネマルーム30』未掲載)のような「整形」だけのテーマではなく、クリスティアン・ペッツォルト監督特有の重々しいフィルム・ノワールになっているわけだ。前述のような違和感や疑問を持つのは当然だが、本作を鑑賞するについては、単に「整形した顔の識別の可否は?」という論点(?)を超えて、もっと奥深いところに焦点を当てなければ・・・。

<「ある計画」とは?「なりすまし」の実行は?>
 
日本の親族法は戦前の民法と戦後の民法で大きく変わったため、相続法も大きく変わった。つまり、戦前は家督相続だったが、戦後は子供は長男もそれ以外も、男も女もすべて平等に相続権を持つようになったわけだ。しかして、本作でジョニーがエスターに持ちかけた「ある計画」とは、妻の財産を山分けするため、死んだはずの妻に似ているエスターにネリーの役割を演じてもらうこと。もっとも、正直に言うと、弁護士の私ですら、その法的なシステムや詳細はよくわからない。しかし、私が理解したのは、要するにネリーが死亡すれば当然その相続人によるネリーの遺産相続ができるが、ネリーの死亡が確認されないため、今までそれができていない。そんな中、アウシュヴィッツからネリーが生還して戻ってくれば、相続はなかったことになり、ネリーは自分の相続財産を自由に処理できるから、エスターと名乗るこの女がネリーになりすませば万事OKということだ。ここで報酬としてジョニーが全財産の半分をエスターに渡すと宣言したのはかなり気前のいい決断だが、さてエスターはその計画にOKするの?
 本作ではその決断に至るまでのネリーの気持ちの「揺れ」はあまり描かれず、服装やメイクからサインの練習までジョニーの言うがままに従っていく様子が描かれている。そして、この過程の中で多くの観客は、ここまでエスターがネリーとそっくりさんになってくれば、いくらカンの鈍い(?)ジョニーだって、いい加減気付くのでは?と思ってしまう。しかし、クリスティアン・ペッツォルト監督はあくまでジョニーはそれに気付かないものとしてストーリーを進めていく。しかし、ジョニーはホントにそれに気付いていないの・・・?また、「ある計画」の実行に向けての準備は一見順調に進んでいるように見えたが、さてその実態は・・・?
 そこら辺りのスリルとサスペンスを、フィルム・ノワールらしい明暗のコントラストをハッキリさせたフィルム撮影によるスクリーン上からじっくりと。

<『スピーク・ロウ』がわかれば、もっと興味深いが・・・>
 『東ベルリンから来た女』では、かなり理知的で彫りの深い美人顔だと思っていた女優ニーナ・ホスが、本作冒頭から導入部にかけては顔全体の包帯姿から鼻に絆創膏を貼った姿まで、かなり異様な「顔」にチャレンジしている。もともと彫りが深い顔だけに、スクリーン上にアップで映るそんな姿はかなり異様だが、中盤からのかつてのネリーに似せていく過程では、次第に美人顔が復活してくるのでそれに注目!
 他方、本作ではジャズのスタンダード・ナンバーとして知られている(らしい)クルト・ヴァイル(ワイル)作曲の『スピーク・ロウ』が大きなウエイトを持っているので、それにも注目!しかも、この曲は元声楽家だったというネリーとの関連で大きな意味を持つので、単に曲の良し悪しや好き嫌いだけではなく、その曲の由来や歌詞を理解したうえでスクリーンを観ればもっと興味深いはず。しかし、残念ながら私にはその知識はない。
 本作では、ネリーの親友レネはネリーにアパートを提供したり、パレスチナへの移住の提案をしたりと、あくまでネリーの「引き立て役」に徹している。そして、最初にネリーが『スピーク・ロウ』の曲を聞くのは、このレネと一緒に食事をするシーンだ。そこでは、レネが「いつかまた歌って」と言っているように、ネリーが近い将来この歌を歌えるような状況になることは到底想像できないが、さて本作のラストでは・・・?
                                  2015(平成27)年9月4日記