洋15-106

「さよなら、人類」
    

                   2015(平成27)年8月27日鑑賞<シネ・リーブル梅田>

監督・脚本:ロイ・アンダーソン
ヨナタン(面白グッズを売り歩く冴えないセールスマン)/ホルガー・アンダーソン
サム(ヨナタンの同僚)/ニルス・ウェストブロム
足が不自由なロッタ/カルロッタ・ラーソン
スウェーデン国王カール12世/ヴィクトル・ギュレンバリ
フラメンコ教師/ロッティ・トーノルス
孤独な将校/ヨナス・ゲホルン
船長(理容師)/オラ・ステンソン
ダンサー/オスカー・サーロモンソン
管理人/ローゲル・オルセン・レイクヴェン
2014年・スウェーデン、ノルウェー、フランス、ドイツ合作映画・100分
配給/ビターズ・エンド

<第71回ヴェネチア国際映画祭で見事金獅子賞を受賞!>
 2015年の今年も9月2日~12日にかけて第72回ヴェネチア国際映画祭の開催が予定されており、多種多様な作品と多彩かつ個性的な審査員団が注目されている。本作は、昨年(2014年)8月27日から9月6日まで開催された第71回ヴェネチア国際映画祭で、第87回アカデミー賞作品賞、監督賞、撮影賞、脚本賞の最多4賞を受賞した『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(14年)(『シネマルーム35』10頁参照)等を抑えて、見事金獅子賞を受賞した作品。ちなみに塚本晋也監督の『野火』(14年)もコンペティション部門に出品されたが、残念ながら受賞は逃した。
 そんなすごい映画が、1年後の2015年夏に公開。こりゃ必見!とばかりに映画館に赴き鑑賞したが、こりゃ相当哲学的で難解!ちょっとしたエンタメ作品、と考えた人はきっとビックリするだろうから、本作は最初からかなりの覚悟を持って鑑賞しなければ・・・。

<はじめて知ったロイ・アンダーソン監督に注目!>
 私は『ある愛の風景』(04年)(『シネマルーム16』70頁参照)でデンマーク人の女性監督スサンネ・ビア監督をはじめて知り、注目した。そして、以降彼女が監督した『アフター・ウェディング』(06年)(『シネマルーム16』63頁参照)、『悲しみが乾くまで』(08年)(『シネマルーム19』245頁参照)、『未来を生きる君たちへ』(10年)(『シネマルーム27』177頁参照)、『愛さえあれば』(12年)(『シネマルーム31』62頁参照)、『真夜中のゆりかご』(14年)を鑑賞している。
 1960年生まれのデンマーク人の彼女に対して、本作を監督、脚本したロイ・アンダーソンは1943年生まれのスウェーデン人で、映画界、CF界の巨匠らしい。とりわけ、カンヌで審査員特別賞を受賞した『散歩する惑星』(00年)と、スウェーデンのアカデミー賞でグランプリ、監督賞、脚本賞と3冠に輝いた『愛おしき隣人』(07年)は有名らしい。しかして、全39シーンを、固定キャメラ、1シーン1カットで撮影し、CG全盛の時代に、ロケーションはなく巨大なスタジオにセットを組み、マットペイントを多用し、膨大な数のエキストラ(馬も)を登場させ、4年の歳月をかけて創り上げたという本作は、“リビング・トリロジー”(「人間についての3部作」)と総称されるらしい。つまり、『散歩する惑星』から始まり、『愛おしき隣人』を経由し、最終章となる本作『さよなら、人類』の完成によって、15年の歳月を要して、“リビング・トリロジー”は完結したわけだ。知らなかったなあ。本作を鑑賞するについては、何よりもそんなロイ・アンダーソン監督に注目!

<冒頭シーンからタイトル登場までの意味は?>
 本作の邦題『さよなら、人類』のように、「さよなら」を頭につければ、それなりの「もっともらしいタイトル」はいくらでもできる。ちなみに、『シネマルーム』でも、『さよなら、アドルフ』(12年)『シネマルーム32』72頁参照)、『サヨナライツカ』(09年)(『シネマルーム24』未掲載)、『さよなら。いつかわかること』(07年)(『シネマルーム19』255頁参照)、『さよなら歌舞伎町』(14年)(『シネマルーム35』214頁参照)、『サヨナラ COLOR』(04年)(『シネマルーム8』187頁参照)、『さよなら渓谷』(13年)(『シネマルーム31』24頁参照)という6つの作品がある。しかして、本作の『さよなら、人類』は言葉どおり考えれば絶望的だが、皮肉やブラックユーモアを込めて考えれば・・・?
 他方、本作の英題は『A Pigeon Sat on a Branch Reflecting on Existence』だが、冒頭の博物館のシーンの直後にスクリーン上に登場するスウェーデン語のタイトルは、パンフレットにある滝本誠氏(映画評論家)の「さよなら、人類。みんなが元気で何よりです。」によれば、「直訳すれば、<生存を熟考する枝の上の鳩>となるか。」と書かれている。ちなみに、本作は2014年10月の第27回東京国際映画祭で上映されたが、その時の邦題は『実存を省みる枝の上の鳩』。
 もちろん、この2つのタイトルでは何のことだかサッパリわからないが、上記解説を読めば、博物館の中にある恐竜の剥製とガラスケースに入った木の枝に止まった鳥の剥製が、このタイトルを「暗示」しているらしい。つまり、16世紀のネーデルランドの画家、ピーテル・ブリューゲル(父)が描いたいくつかの鳥の絵は、「人類のおろかさへの最後通牒といっていい。」らしい。また、それをふまえて、「邦題の『さよなら、人類』はこのあたりを勘案したものだ。ブリューゲルを通じて、原題と邦題はうるわしく交響しあうことになった。」らしい。なるほど、なるほど・・・。
 しかし、本作の冒頭シーンからタイトル登場までを観て、そこまで読み解ける日本人は私を含めてほとんどいないのでは・・・?

<「死との出会い三態」は笑えるコントだが・・・>
 ロイ・アンダーソン監督の製作会社である“Studio 24”で作られた本作の各シーンは、すべて固定カメラを使用し、1シーン1カットで撮影されているらしい。そして絵画に造詣が深いロイ・アンダーソン監督は、その1つ1つのシーンをまるで「動く絵画」のような構図にすることを狙っているらしい。その結果、本作は面白グッズを売り歩く中年男サム(ニルス・ウェストブロム)と ヨナタン(ホルガー・アンダーソン)を中心とした全39のシーン(動く絵画)から構成された有機的なストーリーになっている。そのテーマはもちろん、“リビング・トリロジー”(「人間についての3部作」)の最終章にふさわしい、人類の現在、人類の過去、人類の未来、そして万華鏡のような世界だ。
 本作冒頭には「死との出会い三態」として、コント風のシーンが展開していく。その1は、ワインのコルクを必死に開けようとして、心臓発作で倒れる男の風景。その2は、臨終間近の年老いた女が、天国に持って行くため宝石で一杯のバッグを握りしめている風景。その3は、カフェテリアの中で心臓発作で死亡した男が注文したシュリンプ・サンドとビールを、「どなたかタダでいかがですか?」と呼びかける風景。こりゃ、コントといえばコント、ブラックユーモアといえばブラックユーモアだが、さてあなたは、この「死との出会い三態」をいかに読み解く?

<サムとヨナタンは哲学者!>
 本作に再三登場する面白グッズは①吸血鬼の歯、②笑い袋、③歯抜けオヤジのマスクの3点。これを売り歩くサムとヨナタンは、①は「ロングセラー商品」、③は「イチ押しの新商品」と売り込んでいるが、技術革新と新製品のラッシュに慣れてしまい、モノ余り時代の今を生きている日本人の私の目には、これらは到底面白グッズといえる代物ではない。『男はつらいよ』シリーズにおける寅さんは、まさに「フーテンの寅さん」と言われるような「一人旅」が持ち味だが、「リーダー的立場」のサムと「泣き虫タイプ」のヨナタンは、どうも2人で1人前らしい。2人が住んでいる簡易宿泊所は、大阪で言えば某区にあるドヤ街の簡易旅館のようなもので、部屋は狭く質素だが、私の目には通路が広いアパートのような造りが印象的だった。
 それはともかく、本作の全39シーン(動く絵画)では、この2人がよく登場するので、まずはその人物像に注目。本作でさらに注目すべきは、明らかに社会的な弱者で、ある意味落ちこぼれ層に属しているはずのこの2人が交わす言葉に哲学的な味わいがあることだ。寅さんも時々哲学的な発言をしていたが、彼の話は恋愛話が中心だからわかりやすい。しかし、「現代版のドン・キホーテとサンチョ・パンサの2人組」ともいえるサムとヨナタンが交わす哲学的な会話は、まさにロイ・アンダーソン監督が15年間かけて完成させた“リビング・トリロジー”(「人間についての3部作」)にふさわしい人間論、人類論だから、奥が深い。

<登場人物は「ケッタイな奴」ばかりだが・・・>
 本作は導入部の3つのシーンでコント的に観せてくれた「死との出会い三態」の後、サムとヨナタンを中心とするさまざまなシーンが「動く絵画」として登場してくる。本作が何より面白く、「なるほど、これはヴェネチア国際映画祭金獅子賞作品!」と思えるのは、とにかくその登場人物のキャラが面白いこと。大阪弁で言えば「ケッタイな奴」ばかりだし、何をやってもうまくいかない人間ばかりだが、本作ではそんな人間の生きザマやワンシーンごとの人間の営みが興味深い。
 そのいくつかを紹介すれば、①若くて背の高いハンサムな男の身体にさかんに密着して胸や腰を触る「逆セクハラ」のフラメンコ教師(ロッティ・トーノルス)、②「ロッタの店では1杯1シリングよ」と歌いながら、金の無い水兵や兵隊たちには金の代わりにキスでの支払いをオーケーする片足の女主人ロッタ(カルロッタ・ラーソン)、③18世紀の服装でバーに入り、「出て行け。この店に女が来てはならん。」と女を追っ払ったうえ、バーで働く若い男に「ハンサムな君は戦場に来るべきだ」と言い寄る(?)スウェーデン国王カール12世(ヴィクトル・ギュレンバリ)等々だ。
 ちなみに、本作後半に登場する巨大な酒樽(?)のシーンは、鑑賞後パンフレットを読むと巨大でグロテスクなオルガンだったことがわかる。そのシーンでは、ムチを使ったイギリス兵たちが手足をつながれたアフリカの囚人たちをその中に押し込んだかと思うと、その樽(オルガン)の下に火をつけたからビックリ。その後に登場する、あっと驚く残忍なシーンとは・・・?これも「動く一幅の絵画」だと思うのは、ちょっとグロテスクすぎるが、正装した老人たちがそれを見ながらシャンパンを飲むシーンが次に登場するから、やはりこれも人類の1つの構図・・・?

<映画は動く絵画!その味わいをじっくりと!>
 ハリウッド映画のスピーディかつダイナミックな動きに慣れた目には、本作は冒頭から異質に見えるのは当然。だって、1シーンを固定カメラでじっと追うだけという撮影はある意味単純だから、「それなら俺だってできそう」と思ってしまう。そんな手法で本作のスクリーン上に登場する計39のシーンは、サムとヨナタンを軸としたちょっとしたストーリーらしきものはあるものの、急に18世紀の騎馬隊やスウェーデン国王が登場したり、猿に電気ショックを与える実験をしている研究室の様子が登場したり、と全く脈絡がない。さらに、ラストに登場する、自転車屋の前の停留所でバスを待っている人々が「今日は水曜日?」をめぐって会話を交わすシーンも「オイオイ、こりゃ何のこっちゃ・・・」と思ってしまう。
 しかし、よくよく考えてみれば、人間にはさまざまな時代に、さまざまな場所で、さまざまな営みがあるのは当然。これまでたくさん描かれてきた絵画だって、自画像や女性のヌードを描いたり、花やつぼなどの静物を描いたり、あるいは戦争のワンシーンを描いたりと、画家が描きたいと思う対象はさまざまだ、しかし、その究極の目標は、それを鑑賞する人々に自分の視点を問題提起し、感動を与えたいということだ。それと同じように、スウェーデンの巨匠ロイ・アンダーソン監督は、本作で計39シーンからなる「動く絵画」をもって、人々に「さよなら、人類」という問題提起をしたわけだ。すると、あとはあなたがそれをどう受け取るかという問題が残るだけ。本作はタイトルを含めて内容は哲学的かつ難解だが、そんな風に考えながら観れば、観れば観るほど深い味わいが・・・。

<監督自身による登場人物の紹介は?>
 本作のパンフレットには、ロイ・アンダーソン監督自身による「登場人物たちについて」と題する解説がある。これが面白いので紹介すると次のとおりだ。
 キャラクターたちに共通点があるとすれば、傷つきやすさが挙げられる。日々の生活にさらされているんだ。(王権神授説に則り)神に対してのみ責任を負い、周りの者すべてを屈服させる力を持っているような王でさえ、脆い。多くの登場人物は体面を失うことを恐れている。かといって、恥を避けることもできないのだけれど。
 また、本作の主人公であるサムとヨナタンについては次のように紹介されている。
面白グッズを売り歩く二人は、正反対の性格でありながら友情を結んでいる。二人とも社会的機関を思わせる簡易宿泊所に住んでいる。商売はきびしく、いつも口論している。サムの方が強く、相棒を無神経に扱う。ヨナタンはとても傷つきやすく、日々の労苦に対して繊細だ。サムとヨナタンが物語の中心となり、他の登場人物の生き様を目撃する。
 これを読めば当然ながら、ロイ・アンダーソン監督の登場人物たち(のキャラクターに)対する愛情の深さがひしひしと伝わってくるはずだ。
                                  2015(平成27)年8月28日記