日15-100

「この国の空」
    

                      2015(平成27)年8月15日鑑賞<テアトル梅田>

監督・脚本:荒井晴彦
原作:高井有一『この国の空』(新潮社刊)
田口里子(母と暮らす19歳の女)/二階堂ふみ
市毛猛男(隣家に住む銀行支店長)/長谷川博己
田口蔦枝(里子の母)/工藤夕貴
瑞枝(里子の伯母)/富田靖子
(里子の上司)/上田耕一
(物々交換先の農家を紹介する男性)/利重剛
(疎開を待つ町の住人)/石橋蓮司
(町の住民の画家)/奥田瑛二
2015年・日本映画・130分
配給/ファントム・フィルム、KATSU-do

<本来の戦争映画とは言えない戦争映画がもう1本!>
 8月16日に観た『日本でいちばん長い日』(15年)は「戦後70年」の今年を代表する戦争映画だが、6月7日に観た『おかあさんの木』(15年)は本来の戦争映画とはいえない戦争映画だった。もっとも、今年の8月にTVで盛んに放映されている『硫黄島からの手紙』(06年)(『シネマルーム12』21頁参照)、『父親たちの星条旗』(06年)(『シネマルーム12』14頁参照)等々の本来の戦争映画に比べると、『日本のいちばん長い日』も戦闘シーンは全然ないから、それだって本来の戦争映画とはいえないのかもしれないが、「あの戦争」を考えるネタとなる映画という意味での典型的な戦争映画だ。
 そんな本来の戦争映画とは言えない戦争映画が『おかあさんの木』に続いて、さらにもう1本、『この国の空』だ。

<原作は?荒井晴彦監督はなぜそれに注目?>
 今年の文学界と出版界は、お笑い芸人・又吉直樹氏の『火花』が第153回芥川賞を受賞した話題で持ちきり。何と『火花』は、芥川賞最高の200万部を売り上げているらしい。本作の原作となった『この国の空』(83年)を書いた高井有一氏も芥川賞作家だし、『この国の空』は1984年の谷崎潤一郎賞を受賞した作品だそうだが、私を含めて今ドキの日本人はそんなことを誰も知らないだろう。
 ちなみに、『おかあさんの木』も大川悦生の原作だったが、これも私を含めて今ドキの日本人は誰も知らないだろう。今年は「戦後70年」ということで、この2つの原作が急浮上し、映画化されることになったわけだ。それはそれとして悪くはないが、多少違和感もある。
 他方、本作のパンフレットの中にある「脚本・監督 荒井晴彦に聞く」を読めば、なぜ脚本家 荒井晴彦が1983年に刊行されてすぐこの原作に注目し、映画化を目指したのかがよくわかる。それから30年以上経って、やっと、根岸吉太郎監督ではなく荒井晴彦自身によってその映画化が実現した(荒井晴彦監督の監督2作目)わけだが、そこで述べる「荒井語録」はその賛否は別として必読!とにかく、本作の鑑賞についてはその内容と共に、荒井監督の本作の原作に込めた思いにも十分注目したい。

<『この国の空』VS『戦争と一人の女』>
 2013年3月13日に観た『戦争と一人の女』(12年)は①坂口安吾の原作『白痴』を元に荒井監督が脚本を書き、井上淳一が監督をした作品(『シネマルーム30』199頁参照)。荒井監督は1947年生まれだから私とほぼ同世代で、若松プロの助監督を経てすぐに日活ロマンポルノの名作の脚本をたくさん書き、キネマ旬報脚本賞を5度も受賞している強者だ。『戦争と一人の女』については、映画鑑賞後、井上淳一監督を含む数人の関係者と食事をしながら激論を交すことになったが、私としては是非おすすめしたい戦争映画の1本だ。
 『戦争と一人の女』では、女優・江口のりこの素っ裸になっての体当たり演技と、「戦争が終わるまでやりまくろうか」等々の超過激なセリフが目立っていた。それに対して、本作はエッチ度はほほゼロで、セックスシーンも一度だけあるといえばあるが、ほぼ無しだから、両者は好対照をなしている。
 ここで本作については、2015年8月4日付の朝日新聞における編集委員・石飛徳樹氏の「『この国の空』 監督、物足りませんか」と題する記事を紹介しておきたい。そこでは、「多くのメディアで絶賛されているが、『赫い髪の女』『遠雷』など男女の生々しい性愛の物語を愛してきた記者は少々物足りなさを覚えた」との書き出しで始まる「不満」に対し、「性愛生々しくない⇒19歳 引いて観察」、「詩の朗読むだでは?⇒決意 念入りに」と回答されているが、さて、あなたのご意見は?

 <本作でも女優・二階堂ふみに注目!>
 私は園子温監督の『ヒミズ』(11年)(『シネマルーム28』210頁参照)以降、かつて宮﨑あおいに特別注目したのと同じように、二階堂ふみに特別注目してきた。今やその成長ぶりは、日本の若手女優ナンバー1だ。ちなみに、『ほとりの朔子』(13年)では女らしい面を見せつけてくれた(『シネマルーム32』115頁参照)が、『味園ユニバース』(15年)では大阪のヤンキー娘のような役もバッチリ(『シネマルーム35』未掲載)。しかして、本作では終戦直前の東京で、周りに若い男が誰もいなくなるという状況下、隣家に住む38歳の男・市毛猛男(長谷川博己)と怪しげな関係(今の言葉で言えば不倫だが、その言葉ではいかにも不十分)になっていく19歳の女の子・田口里子役を演じている。
 『ほとりの朔子』での二階堂ふみはキレイで魅力的だったが、本作に観るズボン姿の二階堂ふみは市毛がさかんにキレイ、かわいい、と言うほどキレイでもなければかわいくもない。しゃべり方だって、若い女の子特有の優しさや控えめさがなく、どちらかというとつっけんどん。むしろ、本作中盤に登場するお米の買い出しに母親の蔦枝(工藤夕貴)と2人で出かけた時の水浴びのシーンでは、里子よりも蔦枝の方が色気があり、いい女だと思ってしまうほどだ。妻子を疎開させ、丙種合格しかできなかった38歳の男なればこそ、今なお「赤紙」が来ることもなく銀行の支店長の仕事を続けられているわけだが、そんな市毛にしてみれば、すぐ隣家に若い女がいるというだけで、それが魅力的に映るのは当然。それはともかく、あの戦時下の東京で、あの玉音放送の直前にこんな男女関係があったとは・・・。
 とにかく、私には本作における二階堂ふみは特にキレイとは思えなかったが、そんな演技ができる二階堂ふみという女優には、本作でも注目!

<たまには、こんなラブシーンもOK?>
 映画におけるラブシーンやベッドシーンは激しければ激しいほどグッド。時としてそう思うこともあるが、ホントは決してそんなことはない。前述した8月4日付の朝日新聞の記者の「不満」にもかかわらず、本作を観ているとそのことがよくわかる。
 本作では二階堂ふみ演ずる里子の色香漂うシーンはゼロだが、親戚の結婚式に参列した時に、「お嬢さんもそろそろですな」と言われたことを思い出して、「そろそろ、そろそろ」と唱えながら自宅の畳の上をゴロゴロと転がるシーンをはじめとして、少女から女になっていく瞬間を二階堂ふみは実にうまく表現している。母親の蔦枝は川の水で身体を洗っているのに、娘の里子が恥ずかしがって引っ込んでしまったのは残念だが、蔦枝も里子の「女への変化」を感じているらしく、そこでの母娘の語らいには含蓄がある。もっとも、里子と市毛の何となく怪しげな雰囲気に感づいている蔦枝が、里子に対して、「市毛さんに気を許してはだめよ。奥さんと別れて一人で暮らす家へ出入りするなんてもってのほか。普段だったら許しはしないわ。気を許したら、女の方が損をするのに決まっているから。女は溺れやすいのよ」と訓示を垂れる(?)のは母親としては当然かもしれないが、全体としての蔦枝の話は少し矛盾しているのでは・・・?
 本作で里子と市毛が見せる最初のラブシーンは、神社の境内の中で弁当のおにぎりを食べた後のこと。ちょっと気まずい雰囲気になったため、里子は「お水を飲んできます」と言って自らひしゃくで水を飲み、市毛にもそれを持ってきたが、その後白昼の境内で展開されるラブシーンは?たまたまそこを通りがかったおばさんから「あなたたち、何してるの!」と糾弾された(?)ため、このラブシーンが中止になったのは残念だが、一度ここでキスまで進んでしまうと、さてその夜は?

<この静かなベッドシーンをあなたはどう見る?>
 『戦争と一人の女』で江口のりこと永瀬正敏が見せたベッドシーンは激しいものだったが、とにかく虚無性が充満していた。また、『キャタピラー』(10年)で見た軍神サマを演じる大西信満と、第60回ベルリン映画祭で最優秀女優賞を受賞した寺島しのぶとのベッドシーンも、そのハチャメチャさで語りぐさになるものだった(『シネマルーム25』215頁参照)。それに対して、「その日」の夜に、里子と市毛が見せる「静かなベッドシーン」をあなたはどう見る?
 お昼に体験した市毛とのファーストキスによって、この日、家に戻ってからの里子はかなりヘン。夜も寝付けそうにないらしい。そのため、母親の蔦枝に「先に寝てください」と言ったうえで、自分は庭に降りてトマトを3個摘み水で洗うと、自然にその足は隣の市毛の家へ。そして玄関をノックすると、中にいた市毛もそれを予想していたらしく、あとはトントン拍子に・・・。
 このベッドシーンについては、8月4日付朝日新聞の記者の「不満」と同じ「不満」が私にもあるが、そこは日活ロマンポルノの脚本でならした荒井監督のこと。「コト」を終えた直後、里子が背中とお尻だけを見せて行水をするシーンで、あなたの不満は十分解消できるのでは・・・?そんな本作の静かなベッドシーンをあなたはどう見る?

<それぞれ、終戦をどう考える?>
 戦後70年の今年は昭和天皇の玉音放送をそのまま聞く機会もできたが、多くの人が知っているのは「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」のフレーズだけだろう。また、あの漢文調の文章をそのまま聞き、文字にされても、理解できる人は少ないだろう。また、今年夏のテレビでは、たとえば「田原総一朗氏はこんな気持ちで玉音放送を聞いた」等の番組も多かった。それはそれとして参考になるし、戦後の復興が「象徴天皇」を中心として見事に進んだことに連合国軍最高司令官のマッカーサーが驚いたことは、まちがいない歴史上の事実だ。
 他方、『戦争と一人の女』では支那帰りの兵士が強姦魔になる姿が描かれていたが、この男が「終戦」(=敗戦)をすんなり受け入れることができず、自暴自棄になり、性欲の赴くままの行動に走ったのもうなづける。しかして、本作に登場する里子と、母親の蔓枝そして伯母の瑞枝にとっての終戦とは?蔓枝と瑞枝のそれについて本作は特に描かないが、ストーリー全編を通じて展開されるこの2人の言い争いぶりを聞いていれば、ある程度の想像はつくはずだ。

<里子にとっての終戦とは?>
 本作ラストの最大のテーマは里子にとっての終戦とは?ということになる。本作のラストには、茨木のり子の『わたしが一番きれいだったとき』という詩が朗読されるが、一番きれいだった19歳の時に戦争に苦しみ、周りに若い男が誰もいない中で女に成長していかざるをえなかった里子にとっての終戦とは?妻子を疎開させている38歳の銀行員市毛は、敗戦の日を迎えた今、里子にとってのファーストキスの男であり、初体験の男。したがって、里子にとって市毛は今後頼っていくべき男だが、終戦になれば市毛の妻子が隣家に戻ってくるのも必至。さてそうなると、里子のこれからの生き方は・・・?
 そこで見せる里子の決断とは?そして、スクリーン上に超アップの映像で見せる里子の決意の表情とは?本作のこんなラストは女の恐さを感じさせるとともに、終戦という客観的には大変な時期にそんなことに関係なく、市毛との関係のあり方のみに集中できる自己中心的な思考回路にビックリさせられる。本作を鑑賞するについては、里子にとっての終戦とは?という大テーマをじっくりと考えたい。
                                  2015(平成27)年8月20日記